あまりに残酷だった! 城兵が人肉を食らったという羽柴秀吉による鳥取城攻め
大河ドラマ「どうする家康」では、鳥取城攻めが割愛されたが、あまりに残酷だった兵糧攻めを取り上げよう。近年、『新修鳥取県史』古代・中世史料編が刊行され、その全貌が明らかになった。
天正9年(1581)5月、鳥取城に石見吉川家の当主で吉川経安の子・経家が派遣された。同じ頃、羽柴秀吉は鳥取城攻略に乗り出し、兵粮攻めで攻め落とそうとした。秀吉は鳥取城の西北に丸山・雁金の2つの付城を築き、攻囲戦を展開したのである。
秀吉は米などを通常よりも高額で商人から購入し、先手を打った。鳥取城は兵粮が乏しかったので、秀吉による米の買い占めで窮地に陥った。また、鳥取城には多くの農民らが入城していたが、それは秀吉が城内に追い込んだもので、食糧の消費を促す作戦だったという。
徐々に鳥取城の食糧が尽きたことは、『石見吉川家文書』中の吉川経家の書状で随所に触れられている。阿鼻叫喚ともいえる描写を行っているのは、『信長公記』などの史料である。
同書によると、鳥取城内に立てこもった農民は、すぐ餓死したという。残った将兵は城内の食糧が乏しかったので、3日か5日に一度の鐘の合図で城外に出て、木や草の葉を取り、稲の根っこを食糧とした。
時間の経過とともに食糧事情が悪化すると、事態はますます酷くなった。『信長公記』によると、やがて草の葉なども尽たので、人々は牛馬を食らっていたが、餓死する人は絶えなかった。餓鬼のように痩せ衰えた男女は、柵際へ寄ってもだえ苦しみ、「ここから助けてくれ」と叫んだという。
悲劇はこれだけに止まらなかった。城内の人々は虫の息になった者に集まり、刃物を手にして関節を切り離し、肉を切り取ったという。(人肉の)身の中でも、とりわけ頭は味がよいらしいとみえて、首はあっちこっちで奪い取られていたという。
食糧不足が極限に達すると、人々の理性は完全に失われた。虫の息になった人は、飢えた人々の餌食になった。頭がうまいというのは初耳であるが、脳みそのことだろう。
もはや秀吉に抗するのは不可能になり、同年10月25日、城主の吉川経家は城兵を助けることを条件に切腹した。秀吉は城内の人々が人肉を食らったと知って、いったいどう思ったのだろうか。もはや知る由もない。