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豊臣秀吉の父が織田家の鉄砲足軽を務めていたというのは事実なのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
鉄砲足軽。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、豊臣秀吉の天下人としての地位が確立した。秀吉の父については諸説あるが、織田家の足軽鉄砲を務めていたという説があるので、事実か否かを検討してみよう。

 秀吉の父の経歴を記す史料はいくつかあるが、土屋知貞の手になる『太閤素性記』もその一つである。同書は、御伽衆だった知貞の父・円都や母からの聞き書きをベースとしていた。

 また、『甫庵太閤記』(寛永2年・1625年成立)を参考にした形跡があるので、それ以降から知貞が亡くなる延宝4年(1676)までに成立したと指摘されている。次に、秀吉の出生に関係する部分を掲出しておこう。

 父は木下弥右衛門という中々村の人で、信長の父・信秀の鉄砲足軽を務めていた。

 多くの戦場で手柄を挙げたが、それがもとで怪我をしたので、中々村に引っ込んで百姓となった。

 秀吉と「とも」を子に持ったが、秀吉が8歳のときに亡くなった。

 この記述については、いくつか不審な点が認められないわけではない。たとえば、鉄砲伝来は一般的に天文12年(1543)のこととされている(諸説あり)。弥右衛門が活躍した時代(天文年間初頭)を考慮すると、さほど鉄砲が盛んに用いられたとは考えがたい。

 そうなると、「鉄砲足軽」という記述に関しては、執筆者である知貞の何らかの思い込みがあったのかもしれない。知貞が執筆した時代では普通に鉄砲が使用されていたので、何か勘違いした可能性がある。

 木下という姓を名乗っている点は、どのように考えればよいのであろうか。普通に考えると、いかに戦国時代とはいえ、名字を名乗っているのは有力名主や土豪クラスと考えなくてはならない。

 しかし、秀吉自身の述懐するところによると、少年期の暮らしぶりは非常に貧しかったという。その点を考慮するならば、弥右衛門が百姓身分であったと考えたほうが自然である。木下姓は、不審であるといえる。

 以上の疑問点は、おおむね次のように整理できると思う。

①土屋知貞には秀吉が「木下」姓を名乗っていた先入観があり、父にも「木下」姓を付けてしまった。

②朝廷から秀吉が豊臣姓を賜った際、『豊臣系図』を作成したときの工作であり、本来は秀吉の父に姓氏はなかった。

 いずれにしても、もともと弥右衛門は「木下」姓を名乗っていなかったのであるが、知貞の思い込みあるいは先入観によって、誤って付されたと考えるのが自然なようである。

 少し想像を膨らましてみれば、弥右衛門は中々村出身の百姓であるが、兵農未分離な時代にあって、信秀から動員されて合戦に従軍したのであろう。ところが、思いがけず怪我をしてしまい、百姓に戻らざるを得なかったのが事実に近いのではあるまいか。

 秀吉は本来、五摂家しかなれない関白になったものの、自身の出自には大きなコンプレックスを抱いていた。そこで、出自をごまかすため、あえて控えめに父を鉄砲足軽とし、のちの人がそれを真に受けたのではないだろうか。

主要参考文献

渡邊大門『秀吉の出自と出世伝説』(洋泉社歴史新書y、2013年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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