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歓喜に包まれた労働者、ツァボの人食いライオン

華盛頓Webライター
credit:unsplash

野生動物が人間を襲撃する事件はしばしば起こっており、時として動物の犠牲になる人間もいます。

その中でもツァボの人食いライオンが起こした襲撃事件では、多くの人が犠牲になったのです。

この記事では青年将校と死闘を繰り広げたツァボの人食いライオンについて紹介していきます。

歓喜に包まれた労働者

パターソンが2頭目の人食いライオンを仕留めたと知ったキャンプの労働者たちは歓喜に包まれました。

しかし、彼らは同時に、仲間を多く失った恨みからライオンの死骸を八つ裂きにしようとし、パターソンはそれを必死に止めたのです。

ライオンの死はすぐに広まり、現地人や労働者が彼を「悪魔殺し」と称えて集まりました。

パターソンはツァボから逃げていた労働者たちが戻ってきたことを何よりも喜んだのです。

工事は無事に再開され、ライオンによる被害は終わりを迎えました。

その後、労働者たちの態度は一変し、彼らはパターソンを「英雄」として称え、美しい銀杯を贈呈したのです。

銀杯には彼の勇敢な行動への感謝と、彼の長寿と幸福を祈る賛辞が刻まれていました。

この銀杯と詩は、パターソンの勇敢さとその勝利を記念する象徴として残されています。

パターソンのその後

人食いライオンを倒した後、ツァボ川の鉄橋工事は順調に進み、1899年2月に完成します。

橋はその後の豪雨にも耐えています。資材不足で休暇となったパターソンは、パンジャブ人労働者と共に南西の丘陵地帯を探検しました。

その際、サイの獣道をたどり、偶然にも人食いライオンの巣穴を発見したのです。

内部には人骨が散乱しており、ライオンが潜んでいるかもしれないと銃を撃ったものの、出てきたのはコウモリだけでした。

1899年3月、パターソンはツァボの仕事を終え、ケニア南部のマチャコス・ロードに赴任します。

同年末にイギリスに帰国する際、キクユ族の400人以上が同行を望んだものの、彼はそれを断念させ、忠実な使用人や労働者たちと別れを告げてイギリスへ旅立ちました。

Webライター

歴史能力検定2級の華盛頓です。以前の大学では経済史と経済学史を学んでおり、現在は別の大学で考古学と西洋史を学んでいます。面白くてわかりやすい記事を執筆していきます。

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