【「麒麟がくる」コラム】足利義輝は剣豪だった!?その壮絶な最期とは!?
■剣豪だった足利義輝
大河ドラマ「麒麟がくる」では、足利義輝(1536~65)が注目される。義輝は13代の室町将軍であるが、剣の達人という側面もあった。まさしく「異色の将軍」といえよう。将軍は武家の棟梁でもあるのだから、大いに剣術に関心を抱いたのは不思議ではない。
義輝は将軍家に代々伝わる鬼丸国綱、大典太光世、二つ銘則宗、大般若長光などの名刀を数多く所持していたことで知られている。
では、義輝はどうやって剣術を学んだのだろうか。
■剣豪たちに学んだ剣術
義輝が剣術を教わったのは、塚原卜伝である。卜伝については、昨日書いた。こちら。当時、卜伝は剣術修行で各地を訪問しており、義輝のもとを訪れたのも、剣術指南のためだった。義輝が温かく迎えたのは、いうまでもないだろう。むしろ、大歓迎だったと考えられる。
義輝は卜伝からその奥義「一の太刀」を授けられたという。とはいえ、当時の剣術は雑兵の学ぶ実践の技であり、将軍がわざわざ修行するものではなかったので、義輝の相当な意気込みがうかがえる。なお、ほかに「一の太刀」を授けられたのは、北畠具教と細川藤孝(幽斎)がいる。
永禄7年(1564)、上泉信綱が弟子の丸目蔵人佐を連れ、義輝に剣術を披露したと伝わる。その際、義輝は丸目蔵人佐に感状を与えた。
■弱体化していた室町幕府
この頃の室町幕府は弱体化が進んでおり、三好長慶が亡くなったあとは、松永久秀と三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)が台頭していた。永禄8年(1565)5月、松永久秀と三好三人衆は足利義栄を擁立した。そして、対立する足利義輝を殺害するため、彼らは二条御所に攻め込んだ。
このとき義輝は、名刀の三日月宗近を手にして、敵と果敢に戦ったという。義輝は、先述のとおり剣豪・塚原卜伝に剣術を授けられた達人である。それゆえ、義輝は抜き身の刀を用意して、あらかじめ畳に刺しておき、敵を次々に打ち倒したという。
刀を畳に刺しておいたのは、敵を斬ったあとに刃こぼれがするので、交換するためである。その勇猛果敢な姿は、これまでの将軍にはないものだった。
■最後まで戦った義輝
義輝の最期の様子は、次のとおり描かれている(フロイス『日本史』第23章。意訳した)。
敵は幾多の矢、弓、銃、槍を携えており、彼(義輝)とその部下たちは武装が十分でなく、大小の刀を帯びているに過ぎなかった。敵は彼(義輝)の胸に一槍、頭に一矢、顔面に刀傷を二つ負わせ、義輝が地面に倒れると、敵はその上に襲い掛かり、手当たり次第に斬りつけて殺害した。
義輝は必死に戦ったのであるが、しょせん刀は護身程度の武器だったのであろうか。当時の武器の主流は、あくまで槍や弓である。敵が保持した武器は矢であったり、槍のように遠くから敵を殺すものが主体であった。いかに義輝が卜伝の指導を受けたとはいえ、それらの武器には叶わなかったのである。
■託された義昭
義輝の死後、僧侶だった弟の義昭は家臣に連れられて奈良を脱出し、室町幕府の再興を目指した。しかし、その道のりは非常に厳しく、紆余曲折があった。悲願を成し遂げるのは、永禄11年10月のことなので、約3年もの年月を要したのである。