【「麒麟がくる」コラム】足利義輝の剣術の師匠・塚原卜伝とは何者なのか!?
■将軍に剣術を教えた男
大河ドラマ「麒麟がくる」では、室町幕府の将軍・足利義輝が重要な役割を果たしている。そして、意外なことに義輝は、剣術に興味を抱いていた。その義輝に剣術を指南したのが、塚原卜伝(ぼくでん)である。卜伝とは、いかなる人物だったのだろうか?
■負けなしだった卜伝
塚原卜伝が誕生したのは、延徳元年(1489)のことである。もともと卜伝の家は、鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)の神職の卜部家である。のちに卜伝は、塚原家の養子となった。
卜伝は実父の卜部(吉川)覚賢から鹿島中古流を学び、養父の塚原安幹からは神道流を教授された。また、鹿島新陰流の松本政信も、卜伝の剣に影響を与えた師の一人だった。卜伝は幼くして、剣の達人からみっちりと修行を受けたのである。
修行受けた卜伝は、まったくの負け知らずだった。真剣の勝負は19回に及び、合戦への出陣は37回に及んだという。大永3年(1513)、卜伝は高天原の合戦(鹿島家の内乱)に出陣し、首を21も討ち取る軍功を挙げた。また、剣豪の上泉信綱を下野国に訪ねて弟子となり、陰流を究めたといわれている。
卜伝に転機が訪れたのは、永正9年(1512)のことである。この年から卜伝は鹿島神宮に千日間も籠り、「一の太刀」の奥義を会得した。こうして卜伝は、「新当流」の祖となったのだ。では、「一の太刀」とは、いかなる奥義なのか。
■秘技「一の太刀」とは
「一の太刀」は、松本政信から卜伝に授けられた秘技であり、ごく一部の高弟にしか教えられなかった。それゆえに「一の太刀」の全貌は、必ずしも明らかになっていない。
一説によると、小太刀を用いた攻防自在の技で、斬りかかってきた相手を一瞬のうちに倒すということくらいしか伝わっていない。とはいえ、卜伝は「一の太刀」を門外不出とし、限られた高弟にしか教えなかったといわれている。
卜伝が指導を行った戦国武将としては、足利義輝、北畠具教、細川藤孝(幽斎)がおり、それぞれ「一の太刀」を授けられた。卜伝が彼らに「一の太刀」を授けた理由は、決して彼らの社会的な地位が高かったからではないだろう。やはり、剣の腕を見込んでのことだった。
とりわけ卜伝は、義輝と親交が深かった。指南役に京都に招かれた際は、弟子を約80人も引き連れ、ほかに大鷹3羽、馬3頭を引くという大変豪華な旅だった。こうして卜伝は諸国を訪れ、行く先々で剣術を指導したのである。
■多くの弟子たち
卜伝には義輝ら有力な後ろ盾がつき、その名声は天下に轟いた。同時に弟子の数も増え、それぞれの弟子が新たに流派を興した。鹿島神道流の鹿島盛幹、霞流の桜井霞之介(真壁暗夜軒)、松岡則方などは、その代表といえるだろう。
なかでも松岡則方は、徳川家康に剣術をしたことで知られている。武田家の軍師・山本勘助も弟子の一人だったといわれているが、真偽は不明である。
このように卜伝は多くの弟子を育てたが、没年は不詳である。なお、永禄8年(1565)5月、弟子の義輝は三好三人衆に襲撃された際、自ら剣を手にして応戦した。しかし、しょせんは多勢に無勢で、無念の最期を遂げたのである。