<朝ドラ「エール」と史実>人気1位の名曲「高原列車は行く」。古関裕而の弟の“恋愛話”との関係は?
今週の朝ドラ「エール」、最後に登場したのは「高原列車は行く」。古関裕而の生誕110年を記念して、昨年12月から今年2月まで募集された「あなたが選ぶ古関メロディーベスト30」(福島民報社主催)で、みごと1位に輝いた名曲です。
現在、福島駅在来線の発車メロディーになっているのも、この曲。こちらは、2009年、古関の生誕100年を機に採用されました。ちなみに、新幹線の発車メロディーは「栄冠は君に輝く」です。
■「これじゃ、まるでスイスかオーストリアだ!」と仰天
この「高原列車は行く」は、ドラマのように、弟の恋愛話と関係していたのでしょうか。結論からいえば、これは完全な創作です。そもそも古関の弟・弘之は、戦中すでに結婚していたからです。
とすると、なぜこのようなストーリーが作られたのでしょうか。おそらく、「高原列車は行く」に、あまりドラマチックなエピソードがなかったからでしょう。とはいえ、先述のアンケートで1位に選ばれたような名曲を軽く扱うわけにはいかない――。そこで、弟の恋愛話が組み合わされたものと考えられます。
では、「高原列車は行く」は実際、どのようにして作られたのでしょうか。
歌詞のモデルとなったのは、かつて福島県の猪苗代町に敷かれていた沼尻鉄道(磐梯急行電鉄)です。この鉄道は、鉱山から鉱石を運び出すために設置されましたが、沿線に散在する温泉を利用する湯治客にも使われていました。作詞家の丘灯至夫もその旅客のひとりで、1954年に作詞を依頼されるや、そのときの思い出をベースに「高原列車は行く」を書き上げたのです。
このように沼尻鉄道は貨物用であり、あまりおしゃれとはいいがたかったのですが、古関は、ヨーロッパの高原を走っているような、ハイカラで軽快なイメージの曲に仕上げました。丘はこのメロディーを聞いて、「これじゃ、まるでスイスかオーストリアだ!」と仰天したといいます(斎藤秀隆『古関裕而うた物語』)。
とはいえ、これが異例のヒットにつながり、現在にもつながる人気のもととなったのです。
■「まだ作らないのは、乳母車と霊柩車だけだね」
そんな丘は、福島県小野町の出身。本名は、西山安吉。NHK、毎日新聞に勤務するかたわら、西条八十に師事し、戦後はコロムビアの専属作詞家となりました。ペンネームの由来は、本人の語るところによれば、「新聞記者は押しと顔がきく。これを逆に読むと、ほら、おかとしお」。
古関とは戦前から知り合いでしたが、本格的に仕事をするようになったのは、戦後になってからでした。ふたりはよく乗り物の歌を作っており、1951年の「憧れの郵便馬車」を皮切りに、「登山電車で」「人工衛星空を飛ぶ」などをつぎつぎに手掛けました。「高原列車は行く」もそのひとつだったわけです。
こうした仕事を受けて、ふたりはこんな冗談も言い合っていました。
ちなみに、丘はのちに本当に霊柩車の歌を作りました。「霊柩車はゆくよ」がそれです。こちらは、古関ではなく、小林亜星が作曲を手掛けました。
■「んだナ。リスなんかうめぇ。あぶらこくてうめえんだァ」
最後に、今週少しだけ登場した「さくらんぼ大将」にも触れておきましょう。
「さくらんぼ大将」は、「鐘の鳴る丘」の直後にスタートした、NHKのラジオドラマです。1951年4月1日にはじまり、週5日のペースで放送されました。
「鐘の鳴る丘」は、戦災孤児の救済という社会問題を扱ったものでしたが、「さくらんぼ大将」は、さくらんぼ大将と呼ばれる少年の六郎太と、医者の蛮洋先生が、田舎から全国へと珍道中を繰り広げるという、純粋な娯楽作品でした。当時の日本は、朝鮮戦争の特需で景気が回復していましたから、明るいテーマの作品となったのでしょう。
古関が作曲した「さくらんぼ大将」は、このラジオドラマの主題歌ということになります。
なお、この脚本を書くにあたって、菊田一夫は、古関に「どこか田舎の、それも僻地に住む少年の話をやりたい。古関さん、よいところを知らない?」と相談しています。これに古関は、福島県の茂庭を紹介しました。そしてそこが、さくらんぼの産地だったのです。
菊田と古関は、茂庭に現地取材にも行っています。そのとき、菊田が小学校高学年の子に「この土地で取れるうまいものはなに?」と訊ねると、「んだナ。リスなんかうめぇ。あぶらこくてうめえんだァ」という答えが返ってきて、みんなで大笑いしたといいます。
このように福島が舞台のひとつとなったので、古関は台本の福島方言を手直ししたりしました。
以上、今週の朝ドラ「エール」は、エピソードがかなり詰め込み気味でした。コロナ禍の影響で短縮されたためかもしれません。