樋口尚文の千夜千本 第217夜『悪は存在しない』(濱口竜介監督)
映画の通り道を阻むものに裁きはあるか
※ネタバレはありませんが作品内容に絡めた表現が多いため、鑑賞後に読まれることをお勧めします。
冷気の緊張が伝わってくるかのような木立の移動ショットが石橋英子の硬質な音楽とともにえんえんと続く。こうした静謐な、主としてロングショットの山林や沼や動物の風景は、この作品に「映画の通り道」を拓くようである。その音楽とともにあって、音楽に接近するような映画の原=風景は、時に神話的な澄明さと美しさをたたえている。この光景にとけこんだ主人公の巧(大美賀均)の規則正しい薪割りの音も、もはやその音楽の快い延長という感じである。
だが、こうした世界観のなかに、途中から画としても音としても雑味の多い「不気味なもの」が混入してくる。それはコロナ給付金目当ての芸能プロによる住民説明会であり、その裏側でのリモートによる芸能プロスタッフとコンサルの会議であるのだが、この連中の挿話が割り込んでこなければ、ずっと蠱惑的に続いていたかもしれない「映画の通り道」はやおら危うさを呈してくる。芸能プロの高橋(小坂竜士)は数人の生活用水を少々下方に流したところで大勢に影響はないと口走って住民の怒りを買うが、まさにこの俗世の「物語」の放流によって作品はじわじわと濁り出す。
だが、老練の区長の物言いに似て、濱口竜介は何もはなからこうした「物語」を拒絶するのではなく、とことんそれとつきあいながら「映画の通り道」を活かし得るかを実践的に考えてみせる。実際、この芸能プロ、コンサル側と住民側の絵に描いたような対立図は、ちょっとした業界内幕ドラマよりも痛快な戯画になっている。濱口監督は「映画の通り道」に「不気味なもの」が立ち入らないように狭量な3メートルの柵を設けたりはしないというわけだ。
ところでここで面白いのは、濱口監督が明らかに芸能プロ側の人間については(とりわけリモート画面上にしか出て来ないコンサル男子には)文字通り気色悪い「不気味なもの」として取り扱ってみせる一方で、彼らと対峙する村の住民側の人々についても決して美化しているとは思えないことである。私の個人的感覚ではこの芸能プロ、コンサル側の連中はもちろんおぞましいが、住民側の風体や態度の感じ悪さもかなり苦手である。
劇中で巧が語るように、この村民たちのルーツは農地改革以後に流入してきたアウトローばかりであって、そういった村ならではの屈折や頑なさもしたたかに感じられるのだった。したがって、主張自体はもっともな彼らは彼らで「不気味なもの」のある部分を担っているのかもしれない。逆に濱口監督は、芸能プロの連中については予期せずその私人としての姿までじっくり追いかけて、やや同情を誘う素顔を補完してみせたりする。そこらあたりに徹底して濱口監督はニュートラルであり、いずれの側の人物たちについてもシニシズムで低温調理してみせるのであった。
そんなこんなの粘り強い吟味を経て、不意に「映画の通り道」に舞い戻った巧は、「不気味なもの」に対してどんなけじめをつけるのか。この俗なる熱気を孕んだ「物語」ははたして柵外に追いやられるのか。さまざまな予想を凌駕するであろう不意の、ほとんど発作的なジャッジは、理屈では説明が難しいが衝動としてはよくわかるものだった。なんとなくキェシロフスキの作品みたいだなと思って観ていたら、大島渚の『日本春歌考』の荒木一郎の首絞めに田島和子が「真実ね」と応えるラスト、もしくは90年代の黒沢清のVシネの冷徹遮断ぶりを思い出す展開になだれこんだ。なんとこの後者については濱口監督も意識していたことを語っていて膝を打った。
いつもすべてを無駄にすまじと抑制的で精緻な濱口作品だが、本作は企画の成り立ちかたの影響か、思いのほか気持ちを許した趣味性への傾斜もあって、きっと監督としては想定外の国際評価を受けた感覚があるのではなかろうか。