本当は松平信康の介錯ができなかった。服部半蔵の代わりに斬ったのは誰か
今回の大河ドラマ「どうする家康」では、松平信康が腹を切った。服部半蔵は、自害した信康の介錯を命じられたが、なぜできなかったのだろうか。『改正三河後風土記』の記事から考えてみよう。
家康は瀬名と松平信康が陰謀(武田勝頼との内通)を企んでいることを知り、2人の殺害を決意した。信長の意向でもあったというが、疑わしい。天正7年(1579)8月7日、家康は岡崎を訪ね、さらに信康を大浜から堀江城に移した。8月10日、信康を二俣城(静岡県浜松市)へ移し、家康配下の大久保忠世に監視を命じた。
一説によると、家康が信康に自害を命じようと決断したとき、信康配下の平岩親吉がすべての罪をかぶることで、信康の助命を嘆願したという。しかし、家康の考えは変わることがなく、ついに信康は切腹することになったのである。
同年9月12日、信康の居城だった岡崎城(愛知県岡崎市)は、本多重次が預かることになった。三河・遠江の人質も重次が預かることになった。こうして岡崎城の扱いが決まると、いよいよ信康の切腹の日も決定したのである。
同年9月15日、天方通綱と服部半蔵の2人が二俣城に到着すると、信康に家康の言葉を伝えた。切腹の命令である。天方通綱は家康に仕えていたが、あまり事蹟などが知られていない謎の人物である。生没年も不詳である。
信康は2人に「今さら何を言ってもはじまらないが、私が武田勝頼に与して謀反したことなどは、まったく身に覚えがないことである。このことだけは、私が死んだ後に、2人から父の家康に伝えてほしい」と涙にむせびながら懇願した。
2人は必ず伝えることを約束すると、信康は満足の笑みを浮かべて「今は思い残すことはない」と言って、潔く腹を切ると、「半蔵がなじみなので介錯をしてほしい」と頼んだ。しかし、鬼と呼ばれた半蔵だったが、あまりのことに涙して、介錯することができなかったのである。
そこで、見かねた通綱が「手間取っては、信康様のお痛みが気の毒だ」と言い、自ら介錯を務めたのである。その後、通綱は信康の介錯を務めたことを憚って、高野山に出奔した。のちになって、結城秀康(家康の次男)に召し抱えられたのである。