戦国時代の天皇家は、葬儀ができないくらい著しく衰退していたのか
大河ドラマ「光る君へ」は、天皇や公家が政治で中心的な役割を果たした平安時代が舞台である。一方で、戦国時代は各地で戦国大名が威勢を振るい、すっかり天皇や公家の影が薄くなった。その辺りの事情を探ることにしよう。
奈良・平安時代においては、天皇や公家が我が国の政治を動かしていた。しかし、12世紀後半に源頼朝が鎌倉幕府を開幕すると、様相はすっかり変わってしまった。以降、天皇や公家の影は少しずつ薄くなり、世間的には武家の時代と認識されるようになった。
応仁元年(1467)に応仁・文明の乱が勃発すると、京都市中は兵火に見舞われた。天皇の住まいである御所もかなり傷んでいたが、修繕費用に事欠いたので、そのまま放置されるありさまだった。
そのような状況下において、後土御門天皇は朝儀復興に尽力するなど、涙ぐましい努力を行った。しかし、明応9年(1500)9月28日、後土御門天皇は無念の思いを抱きつつ病没した。
後土御門天皇の死後、悲劇が待っていた。後土御門天皇の遺骸は、財政が厳しいという理由で火葬されず、44日間も放置されたままだった。同年11月11日になって、ようやく泉涌寺で火葬されたのである。
後土御門天皇の後継者は後柏原天皇だったが、あとを継いだ時点から悲惨だった。財政的な問題や政治的な混乱という理由により、即位式を挙行するのに22年もの歳月を要したのである。
あまりに天皇家が悲惨だったので、和漢の才に優れた公家の三条西実隆の門には「やせ公卿の 麦飯だにもくひかねて 即位だてこそ 無用なりけり」という落書が貼られたほどである。
後柏原天皇のあとを継いだ後奈良天皇は、武家に金品と引き換えに官位を与えるなどし、なんとか経済的な苦境をしのいだ。その次の正親町天皇も織田信長の支援に、その次の後陽成天皇も豊臣秀吉の支援にそれぞれ頼らざるを得なかった。
とはいえ、天皇家の人々は食事に事欠くような困窮ぶりではなく、必要な年中行事や儀式(即位式など)などを行う費用が捻出できなかったようだ。現在、戦国時代の研究は大名だけではなく、天皇や将軍の存在に注意を払って行われている。決して存在意義がなかったのではない。