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源頼朝の父を騙し討ちにし、地獄の責め苦を受けた長田忠致の悲惨な最期とは?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
源頼朝。(提供:アフロ)

 テレビドラマなどでは、裏切り者は必ずといってよいほど、悲惨な最期を遂げている。源頼朝の父義朝を騙し討ちにした長田忠致は、悲惨な最期を遂げたので、その経緯を確認することにしよう。

 忠致は桓武平氏の流れを汲む武士で、尾張に本拠を置いていた。長らく源氏に仕えていたが、その前半生には不明な点が多い。そんな忠致に転機が訪れたのは、平治元年(1159)の平治の乱である。

 平治の乱で、源義朝は藤原信頼とともに挙兵し、信頼のライバル信西を殺害した。この一報を聞いた平清盛は、ただちに参詣に赴いていた熊野から京都に引き返し、義朝との戦いに臨んだ。その結果、清盛は見事に勝利したのである。

 敗北した義朝は、配下の者とともに東国に下り、再起を期そうとした。このとき頼朝も従ったがはぐれてしまい、のちに捕らえられた。その後、伊豆国に流され、流人生活を送ることになったのである。

 義朝ら一行は馬もなく、裸足で歩いて何とか尾張国知多郡野間(愛知県知多郡美浜町)にたどり着いたという。ここには、家人の長田忠致・景致父子がいたので、庇護を求めて頼ったのである。

 しかし、忠致・景致は義朝の首を差し出せば恩賞がもらえると考え、義朝が入浴している頃合いを見計らって殺害した。配下の鎌田正清は飲酒中に討たれ、2人の首は獄門に掛けられたのである。

 時が流れ、頼朝が打倒平家の兵を挙げると、忠致はこれに従った。頼朝は父を殺した忠致に対し、寛大にも「手柄を立てたら、美濃・尾張を与える」と約束した。しかし、平家滅亡後、忠致は恩賞どころか、頼朝に殺害された。「美濃・尾張」は、「身の終わり」の意だったのだ。

 本来、処刑する際は斬首が一般的だったが、頼朝は忠致が父の仇だったので、そんな手ぬるいことはしなかった。地面に戸板を置き、そこに忠致を「大の字」で寝かせると、釘で足を打って固定した。

 それだけではない。残酷なことに忠致は槍で爪を剥がされ、皮を剥がされ、肉を切られ、地獄のような責め苦を受けて悶絶死したのである。「嫌へども 命のほどは 壱岐(生)の守 身の終わり(美濃・尾張)をぞ 今は賜わる」という歌が刑場の高札に書かれていたという。

 この辺りの真相は諸説あり、はっきりしない面もあるが、頼朝は単に父の仇を取っただけでなく、裏切り者を地獄のような責め苦で死に至らしめることにより、ほかの武士を牽制したのではないだろうか?

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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