【戦国こぼれ話】薩摩島津家を守り立てた島津義弘。いったいどんな人物だったのか
先日、鹿児島市の幼稚園に島津義弘のエピソードを書いた案内板が設置され、除幕式が催された。義弘といえば勇猛果敢なことで知られ、さまざまな逸話のあることで有名だが、いったいどういう人物だったのだろうか。
■島津義弘とは
島津氏は鎌倉時代以来の名門で、薩摩国島津荘を名字の地とした。島津荘は、日向国中南部から大隅国・薩摩国の3ヵ国にまたがる日本最大の荘園である。鎌倉幕府の開幕後、島津氏は薩摩、大隅、日向の3ヵ国守護を務めた。
天文4年(1535)、義弘は貴久の次男として誕生した。母は、入来院重聡の娘・雪窓である。義弘は兄の義久に従い九州各地を転戦し、島津家の発展に大きく寄与した。
しかし、天正15年(1587)の九州征伐で事態は急変した。島津氏は豊臣秀吉に敗北を喫すると、義弘と義久の関係は悪化する。それはなぜか。
同年の戦後処理で、秀吉は義弘に大隅1国などを安堵し、義弘の子・久保を島津家の家督に任じるなど厚遇する。また、翌天正16年(1588)に義弘が上洛し秀吉と面会すると、豊臣姓と羽柴氏を与えられた。
一方の義久には羽柴氏しか与えられていないので、待遇の差は歴然としていた。この頃から、義久は反豊臣の考えを持つようになったといわれている。同時に、兄弟の関係に亀裂が入った。
■文禄・慶長の役と義弘
文禄元年(1592)に文禄の役が勃発すると、義弘は病気の兄に代わって、朝鮮半島に出兵した。しかし、旧態依然とした体制の島津領国では、肥前名護屋城(佐賀県唐津市)の普請、出陣による軍費負担が重荷となり、「日本一の遅陣」と称される大失態を演じてしまう。
以後も財政状況の悪化は尾を引き、そのことが影響して、義弘の活躍は目立たなかった。それどころか、翌年には子の久保が陣中で没するという悲劇に見舞われたのである。
慶長2年(1597)に慶長の役が勃発すると、義弘は漆川梁海戦で敵将を討ち取るなど、華々しい活躍を見せた。なかでも翌慶長3年(1598)の泗川の戦いにおいては、泗川城で敵を引き付け、大勝利を収めたのである。義弘の面目躍如たるところだ。
義弘は寡兵でもって、敵の大軍を打ち破ったので、その手腕は多くの人から称賛された。ゆえに、義弘は敵から「鬼島津」と恐れられたといわれている。
ところが、義弘の大活躍にもかかわらず、同年8月に豊臣秀吉が死去。朝鮮半島に攻め込んだ諸将は、和睦により一斉に日本へと退去したのである。
■関ヶ原合戦と義弘
慶長5年(1600)に関ヶ原合戦が起こると、義弘は軍勢を率いて西軍に与した。しかし、兄の義久が戦いに消極的であったため、派遣された軍勢は少数に過ぎなかった。義弘は繰り返し義久に援軍を要請したが、それは無視されてしまい、ついに実現しなかった。
西軍は島津氏に期待をかけていたが、義弘の兵が少なかったため、遊軍的な役割しか与えなかったという。中心的な役割が与えられなかったのは、いたしかたない点だろう。ただし、西軍の首脳が義弘を軽視したとの説については、二次史料に書かれたもので、疑問視されている。
同年9月15日、関ヶ原合戦がはじまると、早々に西軍は敗勢が濃くなった。やがて、西軍の敗北が決定的になると、義弘は敵陣を中央突破するという奇策によって、薩摩へ帰還しようとする(島津退き口)。しかし、それは極めて困難な作戦だった。
途中、味方の兵が踏み止まって敵と戦って犠牲となり、義弘を逃がそうとした。これは「捨て奸(すてがまり)」といわれる作戦であるが、史実か否か検討が必要だろう。結局、義弘は薩摩へ無事に戻ることができたが、約300名いた兵はわずか60名ほどになったという。
戦後、義弘の行動は独断専行とされたが、島津家の本領は安堵。義弘に咎めはなかった。義弘は慶長12年(1607)に加治木に移り住み、元和5年(1619)に亡くなったのである。