【深掘り「鎌倉殿の13人」】和田義盛の挙兵時、なぜ三浦義村は裏切ったのか。その真相を探る
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、とうとう和田義盛が挙兵した。しかし、義盛の味方になってくれるはずの三浦義村が裏切った。その辺りについて詳しく掘り下げてみよう。
■和田義盛の挙兵
建保3年(1213)5月2日、筑後朝重なる者が和田義盛邸の近くに住んでおり、この日の物々しい様子に気が付いた。義盛の挙兵である。驚いた朝重は、ただちに大江広元のもとに向かい、事の次第を報告した。
このとき広元は、来客中で酒を飲んでいたが、「義盛、挙兵す!」の一報を耳にすると、すぐに御所へと向かった。義盛が挙兵したことを源実朝らに伝えるためである。もはや一刻の猶予もなかった。義盛が挙兵した相手は、北条義時だった。
■変心した三浦義村
義盛が挙兵したのは、もちろん勝算があったからだった。特に、同じ一族でもある三浦義村・胤義兄弟には大きな期待をかけていた。逆に、義村らが味方になってくれなければ、挙兵しなかった可能性すらある。
義村・胤義兄弟は起請文を認(したた)め、義時に対して挙兵する際は、義盛に味方することを約束していた。起請文は、神仏に誓約するものである。2人が起請文を認(したた)めたので、義盛は安心して挙兵を決意できたのだ。
しかし、義村は最初こそ義盛に与する意向を示していたが、土壇場になって取り止めた。義時のほうに寝返ったのだ。当然のことながら、義村には義盛を裏切った理由があった。
三浦氏の先祖の三浦為継は、源義家に従って後三年の役で大いに軍功を挙げた。そのような事情を考えると、累代の主君を裏切ることは、天罰を受けると考えたのである。執権の義時に反旗を翻すことは、実朝に逆らうことと同じだったのだ。
■まとめ
義村はあろうことか、義時のもとに向かい、義盛の謀反を告げた。義時は囲碁をしていたが、さほど驚く様子がなかったという。すでに、義時は義盛が挙兵することを察知していたのである。こうして、義時と義盛は、ついに戦うことになったのである。