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私たちが知る黒田官兵衛の姿は、『黒田家譜』に書かれた虚像だった

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
黒田官兵衛。(提供:アフロ)

 1月27日、姫路フィルムコミッションの主催で、NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の放送10年を記念し、トークショーが開催された。こちら。黒田官兵衛といえば、天才軍師などのイメージがあるが、それは『黒田家譜』に書かれた虚像なので、詳しく検証してみよう。

 寛文11年(1671)、福岡藩の3代藩主の黒田光之は、儒学者の貝原益軒に『黒田家譜』の編纂を命じた。完成したのは、元禄元年(1688)のことである。

 言うまでもないが、後世になって編纂されたので、二次史料の扱いになる。内容は黒田氏の祖である高政以降の人物を取り上げ、その事蹟を記したものである。しかし、その内容には、疑問点が少なくない。

 たとえば、黒田氏の祖とされる高政は、一次史料に登場しない人物であり、その存在自体が疑わしい。重隆(官兵衛の祖父)は実在した人物であるが、近江国黒田(滋賀県長浜市)に生まれ、備前国福岡(岡山県瀬戸内市)に移ったというが、関連する一次史料がないので疑わしい。

 重隆と職隆(官兵衛の父)の記述に際しては、『江源武鑑』という偽書が参考にされているので、大いに問題があるだろう。2人の一次史料も残っているが、あまりに乏しいのである。

 『黒田家譜』は藩主の命で作られたので、基本的に官兵衛の悪いことは書いていない。逆に、褒め称えている。たとえば、官兵衛が生まれたときには雪が降っており、「英雄の生まれる奇瑞。家門が繁栄する前兆」と書かれている。

 さらに、官兵衛は幼い頃から大志があり、非常に頭が良く、武芸に優れ勇敢だったとベタ褒めである。ここまで書けば、史料の性質が自ずと理解されよう。ちなみに、官兵衛がクリスチャンだったことは書いていない。江戸時代になって禁止されたからだろう。

 豊臣秀吉が官兵衛を恐れていたということは、『黒田家譜』に書かれている。官兵衛は才智があり、よく秀吉を助けた。ところが、天正15年(1587)の九州征伐後、秀吉は官兵衛に大国を与えることなく、豊前国内のわずか六郡しか与えなかった。

 もちろん、それには理由があった。秀吉は事に臨むとき、いろいろと考えた末に結論を出していた。しかし、官兵衛はそんなに深く考えなくても、すばらしいアイデアがすぐに思いついた。秀吉は、官兵衛の頭の回転の速さに驚いたのだ。

 秀吉は乱世ならば官兵衛は重宝だが、平和になるとその存在が恐ろしくなると考えた。九州征伐の際、官兵衛は何も落ち度がなかったが、秀吉はそういう理由で大国を与えなかったのである。

 また、秀吉は諸大名を前にして、「わしが死んだら、誰が天下を取ると思うか?」と意見を求めた。秀吉の考えによると、天下を取るのは官兵衛だったという。秀吉が恐れたのは、官兵衛の常人にはない知恵で、天下取りに一番近いと考えた。

 ところで、こうした話はまったくの創作にすぎないだろう。フロイス『日本史』によると、クリスチャンだった官兵衛は、宣教師の依頼もあって、秀吉に伴天連追放令を止めてほしいと要望したという。

 秀吉はこれに激怒して、豊前国内のわずか六郡しか与えなかったのである。官兵衛は優秀だったに違いないが、キリスト教の布教をめぐって秀吉と対立し、遠ざけられた可能性が高いといえよう。官兵衛の知恵は、あまり関係がなさそうだ。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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