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大坂城落城後、過酷な運命が待ち構えていた千姫のその後

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
文京区の伝通院にある千姫の墓。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」が12月17日(日)で最終回を迎え、豊臣秀頼と淀殿は大坂城外で無念にも自害して果てた。秀頼の妻の千姫は何とか城外に脱出したものの、過酷な運命が待ち構えていた。その辺りを詳しく取り上げることにしよう。

 慶長2年(1597)、千姫は徳川秀忠と崇源院の子として誕生した。翌年8月、病床の豊臣秀吉は子の秀頼の将来を案じ、五大老の筆頭格の徳川家康との関係をさらに深めたいと考えた。そこで、千姫を秀頼と結婚させるため、婚約の話を進めた。それが秀吉の遺命だったが、直後に亡くなった。

 慶長8年(1603)に家康が征夷大将軍に就任し、ほぼ時期を同じくして千姫と秀頼の2人が正式に結ばれた。とはいえ、この時点で秀頼が11才、千姫が7才と幼かったため、正式な夫婦となるのは、さらに数年を要したと考えられる。こうして千姫は、豊臣家の一員として、秀頼を支えることになった。

 慶長19年(1614)に大坂冬の陣が始まると、いったん豊臣家と徳川家は和睦を結んだ、しかし、翌年の大坂夏の陣で豊臣家は徳川家に敗北。大坂城は落城し、秀頼と母の淀殿はともに自害し、豊臣家は滅亡したのである。配下の大野治長は、2人の助命嘆願を申し出たが、それは拒否されたのである。

 千姫は豊臣家の助命嘆願の効果もあって、無事に大坂城を脱出した。千姫が脱出した時、坂崎直盛によって助けられた。家康は孫娘・千姫の無事を大いに喜んだが、秀忠は「秀頼と運命をともにすべきだった」と述べ、対面を拒否したという。お互いに心中は複雑だったに違いない。戦後、直盛は千姫を助けた功績として、1万石を加増されて計4万石を知行されることになった。

 元和2年(1616)、夫の秀頼を失った千姫は本多忠刻と再婚した。忠刻は、姫路城主・本多忠政の子だった。しかし、婚礼の際には、意外なハプニングが起こった。突如、坂崎直盛が輿入れの行列にあらわれ、千姫を奪い去ろうとしたのである。

 直盛がそのような暴挙を行ったのは、家康が千姫を助けた者に対して、「姫を嫁がせる」という約束を守らなかったからだったという(諸説あり)。直盛はその場で取り押さえられ、改易という厳しい処分を科された。とはいえ、直盛の暴挙に関しては、関連する史料が乏しく、今も謎が多いとされる。

 忠刻と千姫は、勝姫と幸千代という2人の子を授かった。しかし、幸千代は3歳で早逝し、寛永3年(1626)には夫の忠刻も亡くなった。夫の死後、千姫は出家して天樹院と号し、娘の勝姫と江戸城に移った。千姫が亡くなったのは、寛文6年(1666)のことである。享年70。

主要参考文献

渡邊大門『誤解だらけの徳川家康』(幻冬舎新書、2022年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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