北海道新聞が読者の信頼のために踏むべき手順とは 〜旭川医大の事件から、全メディアに考えてほしいこと
取材を正当化する論理があるか?
6月22日に旭川医科大学の建物に許可なく入ったとして、同大職員が北海道新聞の新人記者(22)を建造物侵入の容疑で逮捕し、警察に引き渡すという事件がありました。この記者らは、その日に開かれていた吉田晃敏学長の解任を議論する学長選考会議を取材していました。事実経過などは、各紙やニュースサイトなどで詳しく伝えられています(例えば、朝日新聞の第一報はこちら。関連の項目を見て行くと経緯が理解できると思います)。
北海道新聞社は7月7日に「社内調査報告」を紙面とウェブに掲載しました(リンクは会員登録をしないと読めません)。調査の主体が明らかになっていないことや、その記者に取材を直接指示した上司は誰なのかも明らかにできていないなど、調査報告とは銘打っていても報告書の体をなしているとは言い難いものです。報告そのものの問題については、同紙の元記者の高田昌幸 東京都市大学教授のインタビュー記事や、取材の慣例や、同紙だけが記者を実名報道したことについての議論などは、高田教授の別の解説を読んでみて下さい。
その記者の立場を、北海道新聞という会社が尊重できなかったこと、従業員としての記者の自由や安全を守ってあげられなかったという、メディア企業が持つ体質の問題については、法政大学の藤代裕之教授の議論や、ネットジャーナリストの亀松太郎氏の論考を読んでみて下さい。
ここでは、別の視点から、この問題について、ジャーナリズムとして、このような取材を行わなければならなくなった場合の手続きや、もし問題が起きたとして、ニュースメディアとして説明しなければならないポイントを整理してみたいと思います。建造物侵入のような行為をしてまでも伝えなければならないニュースだったのか、納得してもらうには何をすべきなのかということです。
メディア共通の「構造的な問題」
そうすると、日本のニュースメディアが共通して抱える問題が見えてきます。
報告書の最後にある編集局長の言葉にあるように「知る権利」を主張するのなら、まず「読者を味方につけて」議論を展開しなければならないものであるはずです。この事件の取材プロセス全体について理解を得たいのなら、問題の重要性、その形態での取材がなぜ必要だったのか、その際に発生する問題をどのように予測し対策を立てたのか、それでも防げない問題発生のリスクをどのように(誰が責任を持って)引き受けることにしたのか、それぞれ順を追って明確に言語化することが必要です。
その上で、どのステップでどのような間違いや怠慢があったのかを客観的に隠さず指摘し、責任を明確にし、原因を分析し対策を提示してはじめて、「読者の信頼を回復するメッセージ」としての体をなすものであるはずですが、報告書は、そのような要素がほとんどありません。
でも、日本のニュースメディアは総じて、自分たちがニュースを生産する意味や価値を、わかりやすいようにかみ砕いて説明することが得意ではありません。長い間、その必要がなかったのです。なぜか報道機関というだけで、一定の(かなりの)尊敬と期待を集めていた時代があったため、そのような準備をしてこなかったとも言えると思います。
ただ、そのような説明をメディアに対して厳しく求めてこなかった、ニュースの消費者である私たちの方にもその責任はあるかもしれません。
そのニュースはなぜ重要なのか?
旭川医大の吉田晃敏学長のパワハラや不透明なお金の使い方、付属病院の新型コロナウィルス患者の受け入れをめぐる言動などは、以前から問題になっていました(こちらの記事など)。職務を果たすのに適当かという問題を議論する会合が、ニュース的な価値を持つのは言うまでもありません。
「言うまでもありません」が、それが「どのようなニュースの価値だったのか」は改めて説明しなければなりません。すべての説明の前提だからです。国立大学、それも地域の顔とも言うべき機関の長であるという社会的な意味や責任、あるいは新型コロナウィルスによる医療崩壊の危機が迫る中で、北海道東北部の医療拠点を擁する組織のガバナンスが、住民の安全にどのような影響を及ぼすのかなど、説明すべきことは山ほどありそうです。
事件が起きた6月22日の会議後、吉田学長の解任を申し出ることが決まったという意味では、重要な局面だったと思われますが、大きなニュースの流れの中でどのような位置づけのイベントだったのかという説明もありません。「節目の会議」という表現だけでは何のことかわかりません。
「日頃のニュースを見ていればわかるだろ!」と言う人もいます。たしかに私も大学でニュースのことを教えていて、「このくらいのことは毎日ニュース見ていればわかるはずだよね」と残念に思う瞬間はあります。しかし、よくわかっていない人も含めた社会全体に向けて、メディアがいかに説明するかが問われる局面で、その主張は説得力があるでしょうか。
その取材方法は、なぜ必要だったのか?
さらに、北海道新聞は、大学側は会議終了後にぶらさがり取材等に応じているにもかかわらず、なぜ会議の現場に「法を犯すリスクを冒してまで」肉薄し、録音まで行う必要があったのか、という理由も明確に説明できていません。
確かに大学側の取材対応や情報公開も、必ずしも親切ではなかったようです。6月22日の会議は午後3時に始まりましたが、大学が報道各社にファクスで連絡したのは3時50分です。重要な会議であれば、出席者に議論の展開の見込みなどをあらかじめ聞いておきたいなどの取材機会が失われたのは大きなダメージだったかもしれません。
しかし、もし北海道新聞が読者の理解を得たいのであれば、大学側が提供した会議後の取材対応だけでは、どのような情報を得る機会が失われるのか、そしてその、失われる可能性がある情報は、どのような手段で入手することが可能だったのか、北海道新聞が「その手段しかない」と判断した根拠は何か、ということなどが筋道だって説明される必要がありました。
例えば、会議の内容を伝えるブリーファーが、特定の出席者の発言がなかったかのように伝え、出席者に直接確認した情報とかけ離れていることが何度も起きているとか、この大学で過去に行われた非公開の人事案件の会議で、地位や処遇などの「裏取引」が行われたケースがあるとか、会議後に話を聞くだけでは不十分だというエビデンスが提示されなければなりません。
政策など重要な意思決定の場に迫り、生の発言を拾うのはニュースメディアとして必要なことですし、ジャーナリストとしても求められる姿勢です。しかし、取材相手が設定した立ち入り禁止を突破するのは、とにかく「ルール破り」です。少なくとも、それを上回る合理性が示されなければ正当化されません。「新型コロナ感染防止」というタテマエも吹き飛ばす強い理由が必要です。
しかし、報告では「報道各社が旭医大の取材対応に不信感を抱き」「事務局とトラブルになり」などの記述しかなく、どのような内容の情報公開の機会をめぐって交渉していたのかが、まったくわかりません。
本当にその方法以外で取材ができなかったのか?
旭川医大側が提示したルールを無視し、建造物侵入という犯罪行為を賭しても、その取材が必要だったことを正当化するには、「その取材方法の他に、別の方法が存在しない」という根拠、少なくとも北海道新聞側が、その判断をどのようにして行ったのかということが明らかにされる必要があります。
非公開の会議であっても、出席者と事前に信頼関係を築き、会議後別の場所で内容について取材する方法は北海道新聞も行っていたようです。それでは何が足りなかったのか、6月22日に会場外で盗聴録音までさせる必然性がわかりません。
メディアとは関係ない人を共犯者に仕立てあげるという意味では、必ずしも推奨できる方法ではありませんが、例えば会議の事務局職員にマイクロレコーダーをポケットにしのばせてもらい、録音を得るような方法も考えられます。
乱用があってはなりませんが、例えば会議の出席者全員が示し合わせて、悪意のある決定をする恐れがあり、例えばその決定によって、地域の新型コロナウィルス対策が行き詰まり、住民の多数の命がリスクにさらされる可能性があるような重大な局面であれば、メディアは隠し録音に踏み切ることも、あり得ない判断ではありません。
しかし、このケースでは「他の情報収集の可能性をすべて検討したが、これしか方法がないという結論に至った(誰々が責任を持って決断した)」という説明はどこにもないのです。
「あなたの家に記者が来ても大丈夫なのか」が問われている
報告には、逮捕された新人記者が取材に入るまでのキャップら先輩記者らの判断ミスや、LINEを使った連絡の経緯が記されていますが、乱暴な言い方をすれば、一般の読者にとっては「どうでもいいこと」です。かえって、さらに心配が増すのではないかと思います。
もし北海道新聞の記者があなたの庭に来て、勝手に取材していても、安心していられるでしょうか? 「出ていって」と言っても、記者は「キャップの指示で」勝手に入ってくるし、家の中を盗撮するかもしれません。その記者を捕まえて「誰の指示でここにいるの?」と問い質しても身分すら明かさず、挙げ句の果てに会社から「LINEのやりとり見たけど、よくわからないんですよ」とか言われてしまうということです。
新人研修を終えたばかりの(少なくとも、法を犯すリスクに直面する緊張した取材の経験がない)記者を、最前線に送り込むという、かなり無理のある決定がどのように下されたのかという原因の分析が何一つ行われず、具体的なやりとりが披露されているだけでは、安心の材料にはなり得ません。
「北海道新聞は少しだけ先輩の記者が個人的に『経験を積ませたい』というだけで、時に違法な取材にも踏み切らせるのか?」、あるいは「同僚記者が不法侵入で逮捕されるかもしれないような重要な注意事項を『慣例で見逃す』ような注意力しか持っていない記者が現場に出ているのか?」とか、「現場で尋ねられても、身分も取材目的も説明せずに、はぐらかすように指導されているのではないか?」という懸念を抱くであろう、この問題を関心を持って見守る読者の不安に向き合い、解消するための報告書になっていません。
「指針」はあるのに公開しない非合理
報告書では以下のように明記されています。
「北海道新聞では取材のルールを記した『記者の指針』で、記者の倫理上、無断録音は原則しないと定めていますが、指導が徹底されていませんでした。」
しかし、北海道新聞のウェブサイトのどこを探しても『記者の指針』は掲載されていません。そうすると「無断録音は『原則』しないと定めている」と言われても、例外があるのだなということがわかるだけで、その例外がどのような判断でなされるのか、安心できる手がかりはありません。
逮捕された記者が「一部の先輩記者から聞いた体験談をもとに、自分の判断で会議内容をスマートフォンで無断録音していました」、「指導が徹底されていませんでした」と書かれていることから、判断はその記者ではない誰かがすることになっていることだけしかわかりません。
報道の原則やルールの意味とは
北海道新聞に限らず、日本のほとんどのニュースメディアは、ジャーナリズムをどのように考えるか、その上でどのようなルールに沿って取材や発信をするのかという情報を公開していません。
代わりにあるのが「編集綱領」と言われるようなモットーです。
「北海道新聞編集綱領」 にはこのように書かれています。
1. 迅速、正確に報道し、
公正な社論によって健全な世論を育てる。
2. 自由、正義、人権を尊重し、
平和で文化的な国家の発展に資する。
3. 北海道の実情を解明し、
産業の進展と生活の向上に寄与する。
4. 品位と責任を重んじ、
平明で親しみある紙面を作る
確かに反論の余地がない崇高な目標が記されていますが、それを日常の紙面にどのように反映させるのかという「How」も、どのくらい達成できたのかを読者が検証する指標もありません。「読者との約束」になっていないということです。
この文章の目的は北海道新聞だけを批判することではありません。どうぞ皆さんが普段ニュースに触れている新聞社やテレビ局などで探してみてください。ほとんどのメディアは綱領のようなスローガンしか公開していないはずです。報道倫理を少し詳しく公開しているのは、筆者が知る限りテレビ東京だけだと思います。20年前のもので、必ずしも十分とは言えませんが。
十分でないのは、例外的な措置などに踏み切る際の責任の所在や手続きが、ほとんど明記されていない点です。そうすると旭川医大に突撃した記者の問題では、取材の指示に直接責任を負うのは誰なのかわからず、読者に対する信頼醸成装置とはなり得ません。
ニュースの消費者と約束をし直す
これまでの「私たちは真っ当な報道機関だから黙って信用せよ」的な姿勢は抜本的に改める必要があります。
ニュースとはどんな情報だと考えていて(それにはある程度の世界観の表明も必要です)、そのためにどのような手続きをとるのか、自分たちの伝える情報が信用されるために、どのようなルールに従うのか、という原則を掲げ、公開することです。
そうすれば、問題の記者が身分を明かさなかった行動は、社のどんな規定に反していて、それをその記者に教えたのは誰なのかという責任の所在も明らかになります。対策も具体的になります。
メディアの「中の人」の中には、そのような倫理綱領は「企業秘密」のようなもので、公開すべきものではないと思っている人が多くいるようです。しかし、不完全でもいいから自分たちの理想や目標を読者と共有し、ユーザーの協力も得ながら改善していくことでしか、信頼してもらうようなメディアに再建することはできないのではないかと思います。
わかりやすい例を説明しましょう。「記者は株取引をしてはいけない」という原則を公開しているのは、テレビ東京しかないようです。他のメディアの「中の人」たちは「当然ですから」としか言いません。それであなたは、それらメディアを手放しで信用することができますか?
それとも、「私たちの考える経済のニュースとはこういうものだから、記者の株取引はこのように制限する」という原則を公開し、どの記者も「こういう原則があるので、我が社の記者はやらないのです」と明言するメディアの方が信用できるでしょうか?
テレビ東京の報道ガイドラインでは、さすがに経済のニュースを重点的に扱う局だけに、この部分は手続きまで詳しく書いてあります。ご一読をおすすめします。