ジャーナリズムとは何かを再考する(4の後編) 大学生でもできる「普遍化」の考え方とは
社会学者の西田亮介さんが、最近ネット上に増えている「エモい(だけの)記事」を批判しました。これはどういうものなのか、克服するためには何が必要なのか、昼に配信した「前編」から引き続き考えていきます。
後半は、私のゼミ生が制作したニュースの実例を紹介し、「普遍化」という作業が、そんなに大変なものではないということを説明していきます。
出発点は閉じた話であっても
別の事例を紹介します。少し前になりますが、京都の大学で教えていた時のことです。記事の課題を終えた次にゼミ生が取り組む、ニュースクリップ(映像)の制作の話です。
街に出て、ニュースストーリーのネタを拾ってくるのはなかなか大変な仕事です。
発端になったのは、まだ企画を決められない学生たちの企画会議で、私が仕事で打ち合わせに行ったあるお寺が困っていると話題提供をしたことです。
観光客のマナーが年々悪くなり、枯山水の庭園を見に来た客の中で、職員の目を盗んで靴下や裸足で砂の上に入って写真を撮ったりする人が増えているというのです。
砂の上を歩かれてしまうと、せっかく流水を模して作られた模様(紋)が消えてしまい、景観を維持するのに困っているという話でした。
拝観料も簡単に値上げできません。修学旅行などの大口客が来なくなってしまうからです。檀家の数も減っており、資金繰りは楽ではなく、職員の増員などもできず、途方に暮れているというのです。
「普遍化」をいかに目指したか
その話にひとりの学生が飛びつきました。その日のうちに、私が話題にしたお寺に電話をかけ、「マナーの悪い観光客の問題」を映像取材させてほしいとお願いをしました。
ゼミ生が制作したニュースクリップは、代々「ニュースの卵」で公開してきました。プロのニュースメディア並みに公開を前提にした取材をさせる教育的な重要性や効果については、「『公開を前提にすること』の意味」で説明しています。
しかし、お寺の側は「映像が公開されれば、真似をする人が増えてしまう恐れがある」として取材を拒否しました。
そこでその学生は「他にも心ない観光客で困っているお寺や神社があるに違いない」と片っ端から市内の主だった寺社に電話取材を始めました。約10軒が壁などの落書きや庭園のダメージなどがあるという情報をつかみました。
しかし、やはりというか、「他の観光客が真似をする」としてほとんどが取材拒否でした。ただ1軒だけが「名前を出さないのなら」と撮影を許可してくれました。
柵を作って観光客の手に触れないように手を施した建物があるので、数十年前から修復されずに残っている落書きも撮影できました。
いかに広い問題なのかを伝える
取材先の名前が出せない場所(見る人が見ればどこだかわかるのですが)だけをレポートするのでは、ニュースストーリーとして説得力に欠けると判断し、彼女は京都市内で撮影・取材を許可してくれる他の場所を探しました。
マナーの悪い観光客のトラブルが拡がっているのは事実のようですが、リストアップして表を作るような表現の手法は映像のストーリーに適してはいません。
京都全体の文化財・観光施設に共通した問題なのだと伝えるために、どこを選べばいいのかを戦略的に考え、二条城にアプローチしました。
「寺社ではない文化財」であり、京都市内で、ひとつ目の取材先と地理的に離れていて、拡がりも表現できる施設だったからです。
新しい問題も見えてくる
取材してみると、心ない観光客が残した傷跡の問題について、さまざまな側面が予想以上に明らかになりました。「名前を明かせない寺社」では木の柱や手すりに釘などを使って彫られた落書きは、修復が難しく、その部分だけ新しい木材で修復できる見込みもなく、そのままにするしかありませんでした。
二条城では、門を入ってすぐの土塀がたくさんの落書きの被害に遭い、京都市が修復作業を施したものの、漆喰の色目が合わず、まだらになってしまい、せっかくの景観が復元できなくなっていました。
「少しぐらいのダメージなら、ほぼ修復できるはずだ」という希望的観測を打ち砕き、落書きは歴史的建造物に取り返しのつかないことをしているのだということを強く訴えることができました。
また、二条城のように城内の敷地に国宝(二の丸御殿)や重要文化財(本丸御殿)などが併存している施設では、国や京都市など管轄が細かく分かれており、隣接する建造物なのに一緒に修復作業をするのが難しいこともわかりました。
「みんなが知らないこと」を見極める
「普遍化」の作業を進めていくと、その問題が現れるさまざまなパターンとか、問題を深刻にしたり複雑にしたりする「背景や構造」が見えてきます。
それはたいてい、複数の視点や取材ポイントなどを照らし合わせて見えてくるものです。しかし、単独の情報源であっても、個別の詳細な描写や情報の開示の中に、社会的な関心が高い問題について、今までされてこなかった側面や、解明がもたらされることがあるかもしれません。
そのような時のみ、単独の情報源だけの取材でもジャーナリズムとしての価値が生まれるのではないかと思います。
例えば、2024年4月中旬現在問題になっている自民党の派閥の裏金作りで、関与させられた元秘書が、政治家との生々しいやりとりを明かし、いかに良心を捨てなければならない圧力を加えられていたのかまでを赤裸々に語るインタビューであれば、それだけで大きな意味があるニュースとなり得るでしょう。
一度手をつけられた情報には、もうニュース価値がないと言っているわけではありません。似たような取材先でも、インタビューする人の問題意識やテクニックで、より深かったり、読者の想像力を超える情報がもたらされることがあるはずです。
しかし、「どこかで聞いたような話」を文章のテクニックでごまかすだけであれば(もしかしたらテキストの記事を映像で表現すると新しく見えてくるものはあるかもしれません)、新しくもたらされるものは乏しく、「エモいだけ」に陥ってしまう危険性はあると思うのです。
興味を持続させる工夫
欧米のジャーナリズムの世界では、ニュースを魅力的にする努力のことを、「エンタープライズ(Journalistic Enterprise)」と表現することがあります。私は「ニュースの手間ひま」と翻訳して説明しています。
そのニュースを発信する際に、「どれだけ確実な情報源にひとつでも多く当たったか」、「文章表現を練り、ぎりぎりまで推敲を重ねられたか」、「理解を助ける写真や動画、CGなどのプレゼンテーションのサービスを尽くすことができたか」「意外な観点を提示するなど、読者に関心を持って最後まで読んで観てもらえるよう工夫をしたか」などが、それに当たります。
ニュースの消費者はそれらの努力を客観的に評価はしていませんが、努力が尽くされた形跡があるかどうかは明確に見抜いていると思います。
さきほどの京都の落書きの話に戻りましょう。その学生は、工夫して、落書きのストーリーをさらに展開しました。
京都府八幡市に「らくがき寺」(単伝寺)と呼ばれるところがあることを発見し取材に行きました。毎年末に壁を白く塗り替え、新年から1年間、何でも落書きをしてもよいという半世紀以上の伝統がある所です。
住職にインタビューし、「昔は『家族が健康でありますように』と他人を気遣うような落書きもあったのに、最近は『任天堂のゲーム機が欲しい』など、即物的になってきた」というコメントを取りました。
これは指導していた私も予想しなかった、ナナメ上の展開でした。ストーリーの中には、お寺や二条城を訪れた観光客が「日本人として恥ずかしい(落書きは漢字で名前を彫っていました)」とコメントしたり、京都市の担当者が「完全な修復は難しい」と現場で説明したり、別の担当者が「もっと啓発していかないといけない」と話すシーンは入っていました。
しかし、これでは視聴者にとっては「想定の範囲内」の展開ではないでしょうか。彼女はそれを上回る材料を探しました。
「なるほど、そう来ましたか!」と、見ている人をわくわくさせるような材料を盛り込み、最後まで読んだり、観たりしてもらう工夫もニュースには必要です。読者が発想しなかったようなものの見方や材料を提示するには、日常から社会へのセンサーを利かせておかなければなりません。
「なぜ文化財に取り返しの付かないような落書きをするのか」という疑問に、直接の答えをもたらす要素にはなり得なかったかもしれませんが、少なくとも「筋が悪くないヒント」は提供し得るものだったのではないでしょうか。
ニュースの価値を明確に
「エンタープライズを尽くそうとする動機」は何でしょうか。それは、発信するジャーナリストがニュースの価値を実現するために必要だと強く思っており、自分に責任があると思っているからです。
単に文章の表現を飾り、体裁を良くするよりも、はるかに上回る手間ひまをかけないとそれは実現できないと思います。
京都の落書きのストーリーを取材した学生は、取材をするたびに憤慨して報告に来ていました。問題の深刻さを何とか強い印象を持って伝えたいという素直な感情が、表現は未熟であっても、豊かな情報に変わりました。
(彼女はその後、新聞記者になりました。)
大学生でもかけられる労力でもニュースはここまで変わります。「エモい」だけからの脱却のヒントは、この辺りにあるのではないでしょうか。