承久の乱 鎌倉幕府軍が宇治川を渡河するために考え出した「秘策」
承久3年(1221)6月14日。承久の乱、宇治川の戦い。鎌倉幕府軍の総大将・北条泰時の子・時氏は、佐々木信綱とほぼ同時に、宇治川を渡り切っていました。時氏の軍勢は、上陸すると、旗を揚げ、官軍(後鳥羽上皇方)に対し「矢石」(『吾妻鏡』)を発します。先ず、弓矢と石で攻撃を仕掛けたのです。
しかし、官軍もそれに対抗したので、幕府軍のなかにも負傷者が続出しました。98人の者が、既に負傷していたといいます。
その頃、北条泰時や足利義氏が率いる軍勢は、筏に乗り、川を渡っていました。では、この筏はどのようにして作られたのでしょう。近在の民家を取り壊し、その木で、作られた筏だったのです。
筏でもって川を渡る泰時らの軍勢。対岸に着いた幕府軍のなかでも、特に武蔵国や相模国の武士たちが、官軍に果敢に攻めかかったようです。官軍方の源有雅や安達親長などは、これを防ぐことはできず、逃亡。なかには、留まり、奮戦し、落命する官軍方の将兵もいましたが、逃亡する将兵も多数にのぼりました。
北条時氏は、逃亡する官軍を追撃し、討伐したとのこと。更には、宇治川の北方の民家に放火。そこに逃げ込んでいた官軍の将兵は、煙に咽び、大慌ての状態となったといいます。幕府軍の渡河により、官軍は壊滅状態になったのでした。