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なぜこの会社は、創業者の父から子息への事業承継がうまくいったのか【前編】

千葉哲幸フードサービスジャーナリスト
2022年10月、父が会長に、子息が社長に就任した(キイストン提供)

これは、創業者である父から子息へ事業承継がスムーズに行われたお話である。企業の存続を考慮すればM&Aの道も考えられたが、この創業者は子息への事業承継にこだわった。子息が経営者となるために、父はさまざまな試練を与えた。子息はいつしか後継者となることを目標とするようになり、試練を乗り越えて、父の実績を超えるようになった。この父が子息に与えた後継者となるための試練とは、子息にとってどのような能力をもたらし、後継者となるべく自覚と成果につながっていったのだろうか。

長男が「一流の料理人」を目指しイギリスに渡る

この会社は、茨城県つくば市に本拠を置くとんきゅう株式会社である。現在、同社取締役会長を務める矢田部武久さん(76歳)が1983年3月に創業のとんかつ店「とんQ」を出店して、北関東に展開を進めていく。現在は4業態計12店舗となっている(2024年12月末)。

同社の代表取締役社長は矢田部淳さん(36歳)で、2022年10月に代表に就任した。

淳さんは、武久さんとイギリス人の母シャイニーさんの長男として1988年6月に誕生した、5歳上と1歳上に姉がいる。

とんきゅうでは2004年12月にイタリアン「アルゾーニ イタリア」をつくば市内にオープンする。とんかつ店主力で展開していた同社がイタリアンを出店することになったのは、シャイニーさんがイタリア系イギリス人であったこと。また、シャイニーさんの母がロンドンの高級レストランのシェフを務めていたことがバックボーンにあった。そして、とんきゅうの新事業としてイタリアンにチャレンジすることを決意した。

このとき、淳さんは高校生。武久さんとシャイニーさんは、都内をはじめ数々のイタリアンの名店を視察するが、そこに淳さんもついていく機会があった。そこで、東京・六本木の有名店を訪ねたときに衝撃的な体験をした。淳さんはこう語る。

「オープンキッチンで働いている料理人たちがものすごくカッコよかった。イタリア人のシェフが、周りの料理人にイタリア語で次々と指示を出していく。そして、それぞれが自分の役割を黙々とこなしていた。このとき、自分は、料理人になろうと決意した」

高校を卒業する前に、調理師専門学校を調べていった。そして、母から「もっと世界を見てごらん」と、イギリスの学校を勧められた。

「私は一流の料理人になる、と。そこで、ミシュランの店で修業を積んで、格別の調理技術を身に着けようと、イギリスに渡りました」

淳さんは父の武久さんから「将来、会社を継いでほしい」とは一言も言われずに日本で育った。小さいころから誕生日に手紙を渡され、その中には「人生一度きり」とか「自分が夢中になれることを探しなさい」といったことが書かれていた。

そして、淳さんがイギリスに向かうときに、武久さんからこのように言われたことを記憶している。

「10年は、行ってこい」と。

その「10年」とは何か、淳さんはその意味を分かりかねていた。後述するが、結果その通りの時間を過ごすことになった。

父はいつも忙しく仕事をしていたが、家族と過ごす時間はとても大切にしていた。右端が武久さん、その隣が淳さん(とんきゅう提供)
父はいつも忙しく仕事をしていたが、家族と過ごす時間はとても大切にしていた。右端が武久さん、その隣が淳さん(とんきゅう提供)

イギリスの「ミシュラン」3店舗で修業

イギリスでは、まず専門学校で研修をしたフレンチの三ツ星「ウオーターサイド・イン」で働いた。料理人が30人ほどいて、ここで調理技術を学ぶ内容は高が知れていた。次のステップの進むにはどうすればいいかを考えるようになった。

この間、淳さんの母シャイニーさんはがんを患い、イギリスの病院で亡くなった。父母共にお互い気が強く、言い合いが絶えない二人だったが、臨終の間際にお互いがお礼を述べている様子を見て、淳さんは二人の絆の強さを感じ取ったという。

「あなたは、仕事ばかりで、私は子供のことが心配……」

「とんきゅうが生まれたのはシャイニーが居たからこそ。子供のことは、俺がしっかりと面倒を見る……」

これ以降、淳さんは武久さんを人生の相談者として意識するようになった。また、武久さんは、その相談事にはしっかりと応えた。

そこで淳さんは武久さんに、「ウオーターサイド・インに居ては調理技術が身につかない」ということを相談した。武久さんは淳さんに「鶏頭牛後」という言葉を託した。大きな組織の後ろの方にいるのではなく、組織は小さくてもトップの方にいることが重要だ、ということだ。

そこで淳さんは、フレンチの一ツ星「ロトラン」に就く。ここの料理人は5人程度で、淳さんは調理のすべてを学ぶことが出来た。そして、スーシェフとなることを打診された。

しかしながら、「自分はまだ、ほかの店で学ぶべきだ」と考え、当時世界的な名声を得ていたフレンチの二ツ星「ハイビスカス」に就いた。ここのキッチンはとても厳しく、料理人が次々と辞めていくような状態。そのような環境にあって、技術の習得に励んだ。

淳さんはメインを担当していたが、あるとき前菜の担当者が店に来なくなったことから、前菜の担当を言い渡された。その後、その仕事を終えて片づけをしていたときに「お前はメインの担当なのに、なぜいま片づけをしている」とシェフに怒鳴られた。そして、「お前は、明日から来なくていい」と言い渡された。突然の解雇である。

「ハイビスカス」から自宅まで駅が4つの距離があったが、その日の夜、淳さんは泣きながら歩いて帰ったという。

帰国して、とんきゅうのイタリアンの料理長に就任

淳さんは、こう語る。

「私にとって母はとても大きな存在だった。私は19歳で母を亡くしているが、シェフの修業がとてもつらくても、常に私のことを心の中で支えてくれていた」

しかし、そのシェフの道が途絶えてしまった。

「これから自分は、どのように生きていこうか」と。定職に就かない時間を1カ月間過ごした。

そして、父の武久さんにこのように伝えた。

「レストランをクビになった」と。

すると、武久さんはこう答えた。

「そこから先は、自分で考えろ」と。

そこで、淳さんはこう考えた。

「日本に帰ろう。そして、日本でシェフになろう」と。

想定したのは、母のシャイニーさんが指揮を執っていたとんきゅうのイタリアン「アルゾーニ イタリア」を継ぐこと。シャイニーさんのお別れの会もこの店で行なわれ、淳さんにとっては、自分のシェフの修業を支えてくれたシャイニーさんとともに思い出深いレストランである。

淳さんは日本に帰ってイタリアンを継ぐために、名声を馳せていた「リストランテASO」に就いた。当初、東京・銀座の店での勤務が予定されたが、ミシュラン3店舗での経験と高い技術力が認められて、本店である代官山の店で働くことになった。

そして2014年4月、淳さんはとんきゅうに入社した。「アルゾーニ イタリア」の副店長兼料理長という肩書である。

淳さんがイギリスに渡り、専門学校に2年間、三ツ星に2年間、一ツ星に1年間、二ツ星に2年間、そして、代官山のイタリアンに2年間在籍した。淳さんがイギリスに渡るときに、父の武久さんから言われた「10年は、いってこい」と、ちょうど同じ時間が経過していた。

■【後編】は、12月20日(金)11時25分に公開します。

フードサービスジャーナリスト

柴田書店『月刊食堂』、商業界『飲食店経営』とライバル誌それぞれの編集長を歴任。外食記者歴三十数年。フードサービス業の取材・執筆、講演、書籍編集などを行う。

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