側室は何人まで許された!? 戦国武将の正室と側室の際どい話
大河ドラマ「どうする家康」には、次から次へと徳川家康の側室が登場する。ところで、側室は何人まで持ってもよかったのだろうか?その点も含めて、正室と側室の問題を取り上げることにしよう。
戦国時代の結婚形態のあり方として、正室と側室の問題がある。正室と側室との関係は、誠に興味深いものがある。現代の日本は、一夫一妻制である。もちろん、個人的に一夫多妻あるいは一妻多夫の人がいるかもしれないが。
しかし、世界的に見れば、一夫多妻制は珍しいことではなく、現在でもアフリカやアラブ諸国などに見られるし、かつての日本もそうであった。
テレビなどで江戸時代の大奥に関するドラマを見ると、たった1人の将軍に対して、数え切れないくらいの女性が登場する。
しかし、それはあくまで江戸時代のことであって、戦国時代では少し様子が違っていた。では、戦国時代の正室と側室の制度は、どのようになっていたのであろうか。
一般的に、戦国大名には正室(=本妻)が1人いればそれで十分だったが、子孫を絶やさないために、多くの場合は側室を迎えていた。鎌倉時代には、第二・第三妻を持つことまで許されていたらしい。
ここで注意すべきは、性的な欲求を満たすために側室を持つという理由は当たらない。子孫を絶やさないため、あるいは政略によるものなどの事情が大きな比重を占めていたことである。
文禄4年(1595)の「大坂城中壁書追加」には、大名にテカケ(手懸)を2名まで持つことを許している。これは、鎌倉時代の前例にならったものと考えてよいであろう。ただ実際には、2人では済まない例が多く、厳格に側室の数が決められていたわけではない。逆に、正室しかいない武将もいた。
側室を迎えるもう一つの理由としては、政略結婚を行うためには、どうしても子供(特に女子)が必要であるという事情があった。特に、娘がたくさん生まれれば、同盟を結びたいと考えている大名たちの子弟に、娘を嫁がせることができる。
逆に、男子であっても、相手の大名から妻を迎えることができる。子供がたくさんいるということは、同盟を結ぶうえで大きなメリットがあったのだ。
織田信長のように、わざわざ養子(養女)縁組をして、婚姻のため他家に嫁がせた例がある。養子(養女)縁組をしてまで、他家に嫁がせる例は特に珍しくなかった。むろん、その理由は同盟関係を結ぶためであった。
こうなると、婚姻というよりも、事実上の人質であると言わざるを得ない。したがって、同盟関係が破綻すれば、妻は実家へ戻ることになる(殺害されることもあった)。
女性が政略結婚に使われた事例は事欠かないが、婚姻が単にお互いの相手に対する「好き」や「嫌い」で済む問題でなかったことは、間違いない事実のようである。
大名間の結婚は互いの同盟構築の証でもあり、極めて政治的な意味を持ったので、相手が好みでなくても仕方がなかったのである。とはいえ、長く連れ添っていれば、互いに愛情が湧いたと想像される。