プロ野球ドラフト会議のその裏で、フィリピン代表選手が涙をのんだ6年前を振り返る
昨日のドラフト会議では多くの若者がプロ野球=NPBという夢の世界への切符を手にした。野球人口270万人と言われている日本にあって、NPBドラフトで指名されるのは、育成指名を含めて100人ほど。非常に狭き門だ。その狭き門を潜り抜けようとする若者とその狭き門を開ける球団とのやり取りを巡っては、毎年悲喜こもごものドラマが繰り広げられる。
今シーズン、独立リーグでのプレーに終止符を打ったカレオン・ジョニル・マラリさん(24歳)もそんなドラマの中にいたひとりだ。「プロ(NPB)には余裕で行ける」と信じていたカレオンさんにとって、高校3年時のドラフトは苦い思い出となって心に残っている。
日本生まれのフィリピン人
その名からわかるようにカレオンさんは、「日本人」ではない。しかし、フィリピンから日本に働きに来た両親から生まれたカレオンさんは、日本文化の中育った。
「言葉は知らないうちに覚えました。最初はもちろん(両親の母語である)タガログ語なんですが、幼稚園に行く頃にはもう日本語でしたね。だから今でも親が話すタガログ語に僕が日本語で返して会話してます」
自分の中では、「フィリピン」を感じるのは両親との会話と脂っこい煮込み系が多い家庭料理くらいだったが、それでも「よそ者」に対するアレルギーの強い日本社会にあって、子供の世界でも「いじめ」というかたちでそのアレルギーを感じることはあったという。
そんな周囲のアレルギーも野球と出会ってからは感じることはなくなった。小学3年の時、兄がやっていた野球を自分もするようになると、生まれもった運動神経の良さもあって、たちまちのうちに周囲の目が変わった。それにつれ、内向的だった性格も変わっていったとカレオンさんは振り返る。
高校に上がる頃には、カレオンさんはスカウトも注目する地元・神奈川では知られる存在となっていた。
運命のドラフト
カレオンさん自身も高校時代にはプロ(NPB)を意識していたという。3年の夏には古豪・武相高校の3番打者兼投手の「二刀流」でチームを引っ張った。最後の夏が終わった後、カレオンさんは迷わずプロ志望届を提出した。自分を見に4球団のスカウトが来ていたことは聞いていた。ある球団からは「確約」ももらっていた。
「最低でも育成指名はあるだろうって監督さんとも話をしていました」
しかし、ふたを開けてみると、カレオンさんの名が呼ばれることはなかった。この年、2018年秋のドラフトは、高校生豊作と言われたドラフトだった。1位指名で言えば、初回の入札では西武を除く11球団が高校生を指名している。中でも目玉だったのは、この夏の甲子園を沸かせた大阪桐蔭勢で、投打に活躍した根尾昂を筆頭に現在ロッテの看板選手に成長した藤原恭大ら4名がプロの門を叩くことになった。
「騙された感覚です。うわー、やられた、みたいな」
その後、指名を「確約」していた球団からはなんの連絡もなかった。
「ドラフト終わったからもう関係ないよってことでしょう」
当時18歳を迎えようとしていたカレオンさんが最初に見た「大人の世界」、それがドラフトだった。
その後、カレオンさんは独立リーグに進むことになるが、その球団のスカウトも度々カレオンさんがプレーする球場に足を運んでいた。心中複雑なものがあったのではと察するが、そこはドラフトへの再挑戦を選んだ身、割り切ってプレーしていたという。
「まあ、当時のスカウトの方とはもう変わっていましたし、そこから指名されていたら、当然行きましたよ」
未知の独立リーグの世界へ
「確約」を得ていたこともあり、ドラフトまで進学に向けての受験勉強や就職活動は全くしていなかったという。
「監督には、一応行きたい大学を教えてくれって言われたんですけど。勉強、全くできなかったんで。大学名言ったら、無理だって即答されました(笑)」
その監督から勧められたのが独立リーグだった。
「僕は大学に行きたかったんですけど、福島のチームが僕を欲しいって言ってくださってるって」
カレオンさんは、監督に勧められるまま独立リーグでプレーすることに決めた。
とはいえ、この時点ではカレオンさんは、独立リーグについて、その存在すら知らなかった。フィリピンからやってきた父親が巨人ファンだったという彼にとって、「プロ野球」といえば、NPBで、ドラフトから漏れた選手が再チャレンジを期して集う「もうひとつのプロ野球」の存在は全く眼中になかったのだろう。
カレオンさんはルートインBCリーグの福島レッドホープスのユニフォームに袖を通すことになった。最短でのドラフト指名を目指して、カレオンさんは1年目から外野のレギュラーポジションを奪取。.331の高打率を残したが、その年のドラフトでも名前を呼ばれることはなかった。
翌2020年シーズンからは、故郷・神奈川に発足したフューチャードリームスに移籍。新しいチームでも主力を張ったが、結局、NPB行きの切符を手にすることはなかった。
独立リーグ6年目となる今シーズンを終えた後、カレオンさんはユニフォームを脱ぐことを決心した。今年で24歳。今年のドラフトで注目の大学生たちは2学年年下となる。「伸びしろ」を重視するNPBに挑戦するのは、今シーズンまでと決めていた。
野球を通して感じたフィリピンへの思い
そんなカレオンさんにとって野球人生のハイライトは、母国・フィリピン代表として国際大会でプレーしたことだろう。カレオンさんは昨年中国で開催されたアジア大会の野球競技に出場している。この際のナショナルチームの強化合宿で生まれて始めて母国の土を踏んだ。
「フィリピンで野球やってることも知らなかったんですが、2020年のシーズン前にWBCの予選が行われることになって、そのときに初めて声がかかったんです。結局、その予選はコロナで中止になって、2年後に行われた時は、フィリピンじたいが外れてしまったんです。それで、去年の秋にまた声がかかったんです。(BCリーグの)ポストシーズンがあれば、お断りしてたんですけど、去年はチームが3位で出場でできなかったんで」
日本で生まれ育ち、将来的には国籍を取得することも考えているカレオンさんにとって、「異国」だったフィリピンだったが、初めての「母国訪問」は、自らのアイデンティティをあらためて確認する機会となった。
合宿は1週間あったが、その間、1日オフがあった。そのオフの日、親戚がホテルに迎えてきてくれ、両親の実家を訪問したという。
「両親もずっと帰ってなかったんですよ。母方が首都のマニラで、父方がその郊外だったんで、両方訪ねました」
親戚たちとはインターネットを介して話したことはあったが、実際に会うとなんだか不思議な気持ちがした。
親戚との面会は、自身のフィリピン性を呼び起こすのに十分なものだったが、。それ以上に、代表チームへの合流は自身がフィリピン人であることを強く自覚させたとカレオンさんはいう。
「やっぱりフィリピンの野球は日本よりレベルは低いじゃないですか。だから最初は僕が刺激を与えてやろうって思ってました。日本からは僕を含めて3人参加したんですけど、大会のロースターに残ったのは僕だけでした。チーム内ではやっぱり『助っ人』って感じだったですけど、チームの人はすごくいい方ばっかりで、。もうミーティングの時から、もうファミリーだっていってくれました」
代表メンバーは3つに大別できた。フィリピン生まれの「生粋の」フォリピン人がマジョリティで、ここにカレオンさんのような日本生まれ日本育ちの選手。それにでフィリピン系アメリカ人が加わった。そういうチーム構成だったため、チーム内の共通言語はフィリピンの公用語でもある英語となったが、英語が不得手なカレオンさんは、幼少時の記憶を辿ってタガログ語でなんとかコミュニケーションを取った。細かい意思疎通には苦戦したが、これがかえって「生粋の」フィリピン人たちの心をつかんだ。
「タガログ語をちょっとでも理解してるってことで、やっぱりアメリカ系の人よりは、ウェルカム的な感じでしたね。それに、アメリカ系は結局、『アメリカ人』なんです。結構性格がきつくて、試合中もエキサイトして罵声発しますし。フィリピンの人ってみんな穏やかなんですよ。だから、そういうの見て、引いてましたね。だからアメリカ組はなんか浮いていましたね」
中国に渡って、大会本番の初戦はいきなり日本戦だった。社会人選抜で構成された日本代表だったが、その力量は独立リーグよりはるかに上に感じた。それでも闘志を燃やして食らいついていくチームメイトとともに戦う中で、カレオンさんもフィリピン国旗を背負って戦う「チームフィリピン」の一員になっていた。
フィリピンはこの大会を「アジアビッグ4」の韓国、台湾、日本、中国に次ぐ、4位で終えた。
今年も、フィリピンは国際大会に出場する。今月26日から始まる東アジアカップにホスト国として出場するのだ。当然のごとくシーズン中から代表チームへの参加の打診はあったが、結局カレオンさんは辞退することにした。
「まだ進路は決めていませんが、野球からは離れるつもりです」
せっかくの野球経験を母国・フィリピンで伝えるというセカンドキャリアの選択肢もあるのかと思ったが、
「野球は、プレーするのは好きですが、教えるのは苦手ですから」
と首を振った。これからは、生国、日本で普通の人生を送っていくつもりのようだ。
「両親はフィリピンに帰ってほしいと思ってるかもしれません。でも、自分の帰るべき場所はやっぱり日本ですから」
多くの若者がNPBへの切符をつかむその裏で、ひとりの元ドラフト候補がバットを置いた。
(写真は筆者撮影)