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バックパッカーに憧れた高校球児―高木勇人(神奈川フューチャードリームス/元巨人)物語1―

阿佐智ベースボールジャーナリスト
高木勇人(BCL神奈川フューチャードリームス)

「野球漬け」の少年が抱いた夢

 野球選手、それもプロになるような者は総じて、少年時代は野球漬けの日々を送るものだ。だからテレビなど見たことない、自分が目指すべきプロ野球でさえほとんど興味がないという選手は決して珍しくはない。いや、平成の最初の頃までは、それが普通だったかもしれない。なにしろ、物心ついた時からプロ入りするまで「休みは盆と正月だけ」というのが当たり前だったのだから。

「僕もそんな感じだったですかね。テレビは、巨人戦の中継だけ親父が許してくれました。巨人戦が野球の教科書でした」

 と高木勇人は少年時代を振り返る。その父親の思いがかなって2014年のドラフトで巨人から3位指名を受け入団するのだから親子の思いはかなったと言っていい。35歳の彼は現在、独立リーグ、ルートインBCリーグで選手兼任コーチとして自らの経験を若い選手に伝えている。

 ドラフト指名を受けて名門・巨人に入団した高木がプエルトリコのウィンターリーグに派遣されたのはプロ2年目の2016年オフのことだった。

 1年目から先発ローテーション入りし、9勝とおしくも二桁勝利には届かなかったものの、社会人即戦力としての期待には見事に応えた。しかし、規定投球回数に到達したルーキーイヤー終盤にバテたのがそのまま尾を引いたのか、2年目は大きく数字を落としてしまった。そんな彼を叱咤激励する意味もあったのだろう。球団は、同期入団で現在不動の4番を務める岡本和真らとともに、中南米四大ウィンターリーグのひとつに数えられるプエルトリコのリガ・デ・ベイスボル・プロフェシオナル・デ・ロベルト・クレメンテに彼を送り出した。

「しっかり鍛えてこい」

 ラテン球界の英雄の名を冠したリーグで彼らがプレーすることになったチームの名はやっぱり「巨人」だった。全米有数の乗降客数を誇る空港のある町、カロリーナのチームの名は「ヒガンテス」。「ジャイアンツ」を示すスペイン語名だった。

 中南米と言われても、イメージがわく野球選手は多くない。なにせ、ほとんどの者たちが、好むと好まざるとにかかわらず机に向かって将来的には雑学程度にしかならないだろう知識を頭に詰め込まねばならない少年時代に野球漬けの日々を送ってきたのだから。しかし、高木はこの時すでに「中南米」に漠然としたものながら憧れを抱いていた。

「中南米っていうより、バックパック担いで世界を見て回りたかったんですよ」

 そう思うようになったのは、進路が決まった高校3年の時だという。

「就職先が三菱重工に決まったんです。それで、練習に行くにも車運転できなかったら話にならないだろって、運転免許を取ることにしたんです。学校からも特別に許可をもらって合宿免許っていうやつに参加しました」

 卒業後の春休みならともかく、秋に免許取得の合宿に参加する高校3年生はなかなかいない。当時17歳の高木は当然のごとく最年少で、周囲は年上ばかりだった。それまでずっと野球漬けだった高木にとって、そこは初めて目にする「外界」だった。そこで出会ったのが、世界中を旅することをライフワークとするひとりのバックパッカーだった。まだ見ぬ、というより平凡な人生を歩んだら絶対に見ることのないだろうその男の話に高木は夢中になった。

 それ以来、世界中を旅することが高木の夢となった。

 社会人野球でプレーするようになった高木だが、海を渡るチャンスであった「全日本」には候補に挙げられながらも結局そのメンバーになることはなかった。

 三菱重工名古屋には、7年在籍し、プロ入り。結局、海外といえば、高校時代の台湾遠征くらいしか経験しないままに終わった彼にとって、プエルトリコ行きはいろんな意味でビッグチャンスだった。

「でもまあ、この時は野球だけで手一杯でしたけど」

 まだ見ぬ世界をじっくり体験するのは、野球を終えてからだと高木は自覚した。それまでは野球に打ち込んで、お金を貯め、引退したら、世界中を旅しよう。まるで、学期中にアルバイトに精を出すバックパッカー学生が思うようなことを考えながら高木はプレーを続けた。

ラテン野球の衝撃

 ともかくも、彼は2016年オフ、プエルトリコのウィンターリーグで武者修行することになった。

 プエルトリコはアメリカの自治領である。「自治領」という我々には少々わかりにくいカテゴリーとなっているのは、日本でいう明治時代にスペインとの戦争に勝利した結果、アメリカが自国領に編入したという歴史による。U.S.Aの一部ではあるのだが、文化的にはラテンアメリカに属している。そのような歴史を反映してか、野球は人気スポーツの筆頭で、プロリーグは、ドミニカ、ベネズエラ、メキシコと四大ウィンターリーグを形成している。

 とはいえ、現在のウィンターリーグの陣容は、どこもマイナーリーガーとFAとなり「就活中」のメジャーリーガー主体である。レベル的には日本のプロ野球よりずいぶん落ちるのだが、その分、シーズン中に試せなかったことを実戦で試すこともできると、しばしば日本の球団が期待の若手を武者修行に出す。とくにアメリカ領のプエルトリコは、他の国と比べて治安状況がいいということもあって、「留学先」として人気がある。

 レベルは日本より落ちると書いたが、それは仮にチーム単位で戦ったとすればという話で、個々の選手の力量は、日本の選手に引けを取ることはない。

「まあ、アップが5分くらいで終わったり、アバウトっていえばアバウトなんですけどね。でも、あそこでプレーしている連中は、そもそも力が違いました。ピッチャーだったら例えば、当時は日本で先発だったら150キロぐらい投げたら速いほうかなっていうぐらいだったんですけど、あっちは先発でも155キロ以上の球を普通に投げてるっていう感じでした。とにかくパワー野球っていうのが自分にとってすごい刺激的でした」

 それにも増して、打者のパワーには度肝を抜かれたと高木は言う。中でもひときわ目立っていたのは、現在千葉ロッテでプレーするネフタリ・ソトだった。

「もうずば抜けていました。一緒に来ていた球団の人にも『ウチに獲りましょう』って言ったんですけど、却下でした(笑)。もっとも当時の彼は、メジャー志望で、誘っても来なかったでしょうね」

 バリバリのメジャーリーガーがウィンターリーグでプレーしたのも今は昔。とくに地元有望選手がアメリカ本土に移住してしまうことの多いプエルトリカンリーグは、魅力をなくし、チーム数も縮小している。スタジアムのスタンドは閑散としているのが常だが、常に満員のスタンドでプレーしていた高木は気にはならなかったのだろうか。

「スタンドの印象はなかったですね。もともとお客さんが多いとか少ないとか、気にならないタイプなんで。お客さん少ないのなんか気にしてたらここ(BCリーグ)でプレーできませんよ(笑)」

日本野球からの「引退」とラテン野球という「夢」

 武者修行を終えた高木だったが、ルーキー時代の輝きを取り戻すことはなかった。成績は年々下降し、2019年シーズン限りで移籍先の西武から彼は戦力外通告を受け、「引退」を決意する。オフの合同トライアウトは受けたが、「卒業式」のつもりだったという。しかし、「プロ野球選手」を辞めるつもりはなかった。

「ラテンアメリカに行こう」

 少年の頃憧れた海外に出ようと高木はクビを告げられた瞬間に決めた。ただし携えていくのはバックパックではなく、グラブだった。

 しかし、ラテンアメリカでプレーするといっても、高木にはなんのつてもない。どうしたものかと、思案しつつ、とにかくはと参加したトライアウトの場に話が転がっていた。  

 合同トライアウトの場には、NPB球団のスカウトだけでなく、様々な「スカウト」が集まる。中には野球とは関係のない職種の関係者もプロ野球選手の優れた身体能力に魅力を感じて足を運ぶ。そして中には、台湾などの国外リーグの関係者やアメリカ独立リーグや中南米などの国外でのプレーを持ちかけてくるブローカーと言ったほうがいいような連中も交じっている。

 高木の気持ちを知ってか知らずか、そういうブローカーのひとりが声をかけてきた。

「それでメキシカンリーグはどうだって、誘われたんです。メキシコに夏のリーグがあることなんて知りませんでしたが、もうふたつ返事でOKしました」

 しかし、待てど暮らせど具体的な話は出てこない。日本球界からの「引退」と同時に結婚を決めていた高木は、国外で野球を続けるのか、別の道に進むのか、早々に決めねばならなかった。やはりメキシコで野球を続けるなどというのは雲を掴むような話なんだと、セカンドキャリアを模索し始めていたタイミングで、今度は別ルートからメキシカンリーグの話が舞い込んできた。このリーグでプレーした経験をもつ元独立リーガーが南部地区の人気チーム、ユカタン・レオーネスの話を持ってきてくれたのだ。

 実際にそこでプレーしていたというその男の話はトントン拍子に進んだ。年が明け、2020年2月、キャンプに参加すべく、高木は新妻を残してメキシコに旅立った。

「メキシコでプレーするんで籍は入れたけど、式はシーズン後に挙げようって。一応結婚前に、日本でクビになったら、国外でプレーするつもりだということは伝えてはいたんですけど。引退のタイミングで結婚して、いきなりの海外ですから。嫁さんには頭が上がりませんね」

 新妻を残して高木は再び太平洋を渡った。

(つづく)

写真は筆者撮影

ベースボールジャーナリスト

これまで、190か国を訪ね歩き、23か国で野球を取材した経験をもつ。各国リーグともパイプをもち、これまで、多数の媒体に執筆のほか、NPB侍ジャパンのウェブサイト記事も担当した。プロからメジャーリーグ、独立リーグ、社会人野球まで広くカバー。数多くの雑誌に寄稿の他、NTT東日本の20周年記念誌作成に際しては野球について担当するなどしている。2011、2012アジアシリーズ、2018アジア大会、2019侍ジャパンシリーズ、2020、24カリビアンシリーズなど国際大会取材経験も豊富。2024年春の侍ジャパンシリーズではヨーロッパ代表のリエゾンスタッフとして帯同した。

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