樋口尚文の千夜千本 第149夜「MOTHER マザー」(大森立嗣監督)
なだれのようにただ堕ちてゆく人生と映画に理由はない
家族を描いた犯罪映画といえば、長谷川和彦監督『青春の殺人者』や是枝裕和監督の『誰も知らない』『万引き家族』などさまざまな例があるが、本作を観た後の余韻はどちらかと言えば大島渚監督『少年』などに似ているかもしれない。それは、「酷薄さ」という一点においてである。この作品では犯罪を通して家族の秘めし絆や愛情のごときものを描こうという意図が全くない。仮に血縁で親子を名乗っていても、それがいわゆる社会が規定する親子の関係とはまるで別物、ということはいくらもあるだろう。とんでもないクズ親が見どころのある子どもを巻き添えにして堕ちてゆくだけの、救いがたい例もそこらに転がっているかもしれない。本作は、そんな道義と倫理にもとるいびつな親子関係を社会派的に断罪しようという映画ではさらさらない。その異常な関係性のもとできわどい連帯をしている親子も、しかしやはり親子なのだということを、ただひたすら酷薄なまなざしで直視しつづける作品なのである。
まず脚本の港岳彦が繊細に組み上げた人物像が抜き差しならない。長澤まさみ扮する秋子は、どう見てもごく普通の穏健な家庭の娘である。そして妹はまっとうに育っていそうなのに、なぜか秋子はだらしなく、反抗的に、わざわざ人生を破綻させるばかりだ。職に就かず、親にたびたび金を無心し、持ち前の媚態でろくでもない男どもに寄生して(いるつもりがまんまと寄生されてしまうので、さらに始末に負えない)……といった繰り返しで、もう実の親もわが子ながらうんざりしている。港のシナリオは、秋子の堕ちっぷりにもっともらしい理由など与えず、彼女がなぜともなく暗黒面に行ってしまう、ということにしているのが素晴らしい。理由があろうがなかろうが、こういうやっかいな、どこか怪物的な人間は生まれてくる。そして、そういう親のもとに生まれてしまった子どもには、それこそ何も理由はない。だが、たまたま親子になってしまったからには、どうにかして共に生きてゆくほかない。それは、とにかくそういうものなのだと、シナリオは冷徹に眺め続ける。
こうして造型された秋子を堂々たる構えで演じきり、長澤まさみがまたしても出色の演技で作品を埋め尽くす。ずけずけと親に金をせびり、懐が寂しくなっても働くことはせず、目ざとくロックオンした男どもを獰猛に篭絡してゆく(にしてはマヌケな仲野太賀のくだりのオチが笑えた)。そして義務教育さえまともに受けさせてもらっていない息子の周平(演ずる奥平大兼をよくぞ発見したと思う)に手を差し伸べる慈善家がいて、周平自身も学校で学びたいと希望しているのに、頑なに秋子はそれを拒み、息子を自分の荒んだ人生の彷徨の道連れにする。これまでに映画から舞台まで、さまざまな長澤まさみの演技を観て来たが、『キングダム』のような映画ではみごとに表層的なカッコよさを目指し、『散歩する侵略者』のような映画ではアートな作品のフォルムに嵌合すべく涼しい間合いの虚構感を貫き、『MOTHER マザー』のような映画では秋子という人間の根っこをつかまえたような捨て身の芝居に打って出る。作品世界の求める線に忠実に、しかもそれぞれの方向に堂々振り切った凄みを常に感じさせるひとである。
これら脚本も演技も、自らの鋳型にはめるというより、映画づくりの過程でのコンデイションを活かしつつ、それぞれ豊饒なかたちに発酵させるタイプであろう大森監督は、いつもながらの泰然とした構えで映画が熟すのを待っている感じだ。その酷薄なまなざしは、秋子が周平もろとも人生を滑り落ちてゆくさまを、なんの教訓も憐憫もなく、眺め続ける。その果てに漂着した、ラストの秋子の表情はいったい何であろうか。この茫然と自らの堕落を受け入れるばかりの、空虚にくたびれ果て、しかし悔い改めるどころか不敵な感じさえする長澤まさみの表情は、本作最大の収穫だろう。雨のそぼ降る場末の風景をさすらう母子の映像は、まさにかれらの内なる人生の辺境を形象化したものに見え、辻智彦の撮影がとても活きていた。