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戦争の悲劇と和解、イルカボーイズの軌跡

華盛頓Webライター
credit:unsplash

戦争には様々な悲劇がつきものです。

そんな中イルカボーイズは、特異な例として後世まで語り継がれています。

この記事ではイルカボーイズの軌跡について取り上げていきます。

約半世紀ぶりの来日

1992年10月8日、47年ぶりに入鹿を訪れた「イルカボーイズ」一行は、家族を含め26名のグループでした。

大雨の中での到着にもかかわらず、元捕虜たちは心に深い傷を抱えたまま、どこか頑なな態度を崩さずにいたのです。

入鹿へ向かう列車の中で、彼らは「忘れることはできないが、許すことはできる」と語っていましたが、その表情は、道中で地元の人々から温かい歓迎を受けるうちに少しずつ和らいでいきました。

一行は湯ノ口温泉の宿泊施設に滞在し、かつて捕虜時代に通訳を務めた日本人男性との再会を果たし、旧交を温めました。

翌日、10月9日には快晴の下、盛大な慰霊祭が行われたのです。

元捕虜たちや地元の人々、紀和町役場の関係者、老人クラブ、そして多くの報道陣が参列し、総勢約300人が参加しました。

慰霊祭は日本語と英語を交互に使いながら、しめやかに進行し、イルカボーイズは70歳前後のおじいさんとなっていましたが、元気で陽気な姿を見せたのです。

彼らは、かつて捕虜時代に覚えた「テンコ(点呼)」「サギョウ(作業)」「コラ」「チョットマテ」などの日本語を冗談交じりに使い、笑い合う場面もありました。

翌日の10月10日、体育の日には入鹿中学校で行われた町民運動会に参加しました。

「幼児・イルカボーイズ連合チーム」として、地元の「お年寄りチーム」と玉入れで対決し、59対31で見事勝利を収めたのです。

イルカボーイズはその後、観光のため鳥羽や京都を訪れ、10月15日にイギリスへ帰国しました。

この訪問は深い感動をもたらし、翌年の1993年10月9日には再び慰霊祭が開催されました。

この慰霊祭では、イルカボーイズの一員だった人物の息子が、父親が日本再訪前に逝去したことを受けて参列し、父の代わりに感謝の意を示したのです。

また、墓地の一角には「イルカボーイズ墓参記念碑」が建てられ、その除幕式も行われました。

この記念碑の設置を機に「イルカボーイズ来日墓参委員会ジャパン」は解散しましたが、三重県立紀南高校の戸地功が異文化交流と地域振興のために「紀南国際交流会」を設立し、慰霊の活動を継承したのです。

その後、1994年の極東捕虜協会全国大会では、イルカボーイズの訪日が広く知られるようになり、反日感情の強かった元捕虜たちにも変化が生じました

1995年には再びイルカボーイズ21人が来日し、慰霊と地域住民との交流が行われたのです。

この際、ある元捕虜は「入鹿では嫌な思い出は一つもない」と話し、かつての敵対関係を乗り越えた交流が続いていきました。

この「和解」が成立した理由について、研究者たちは、メディアによって墓地が「発見」され、報道されたこと、そして何よりも地元の人々が墓地を維持し、亡くなった兵士たちを忘れなかったことが大きいと指摘しています。

イルカボーイズの訪問以降も、紀和町と彼らとの交流は続き、元捕虜たちの心の癒しと和解を目指す活動「アガペ」を通じて、恵子ホームズはその後も日本やタイなどを訪れる活動を続けました。

彼女の尽力が評価され、1998年にはエリザベス女王から大英第四級勲功章(OBE)が授与されたのです。

また、1999年には日本外務大臣賞も授与され、アガペの活動はその後も平和活動として続けられています。

このようにして、イルカボーイズと入鹿の住民との長年にわたる交流は、戦争という過去を乗り越えた「和解」の象徴となり、今日もその精神は受け継がれています。

Webライター

歴史能力検定2級の華盛頓です。以前の大学では経済史と経済学史を学んでおり、現在は別の大学で考古学と西洋史を学んでいます。面白くてわかりやすい記事を執筆していきます。

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