明治43年創業の伝説のラーメン店「淺草 來々軒」復活に向けての高すぎる壁
新横浜ラーメン博物館(「ラー博」)で「淺草 來々軒」(明治43年創業、昭和51年閉店)が復活すると聞き、驚くとともに、いろいろな思いが込み上げてきた。どんなラーメンが出てくるのか楽しみに思う反面、果たして歴史上のラーメンを実際に再現していいのかという複雑な思いも正直あった。
「淺草 來々軒」は日本で初めてラーメンを広めた原点であり、ラーメン史を語る上で欠かせないお店だ。
しかし、当時の味を知っていて再現できる料理人がいるかというと、それは存在しないと言っていい。ラー博はそれを史実と関係者の証言をもとに再現しようとした。
ラー博はただのラーメン商業施設ではない。「博物館」というその名の通り、ラーメンの歴史を正しく伝える使命のもと、発表されている史実だけではなく、全国を行脚し過去の文献や数々の関係者の証言をもとに歴史を伝えている。それは白黒の写真に色をつけるような作業で、その苦労は大変に大きなものであるだろう。今回の「來々軒」プロジェクトも、実は1991年から始まっていたものだという。
ラー博館長の岩岡洋志氏は「來々軒」が“日本初のラーメンブーム”を起こしたお店なのかどうかに注目した。
明治42年の文献には、ラーメンの前身である南京そばについて、豚臭く脂っこいため、淡白な味を好む日本人にはあまり受け入れられなかったという記述がある。浅草においても、ラーメンを含む中華料理がなかなか理解されなかったという歴史もあり、その中で「來々軒」は南京そばの味を日本人向けに改良して大ヒットとなったのだと推測される。
そして、調査を通して、当時の文献の中に「來々軒」が絶賛された記事が多数あったこと、「來々軒」のようなラーメンを看板メニューとした同形態のお店が増えたこと、西洋料理店・食堂・日本そば店がメニューにラーメンを取り入れ始めていたことから、「來々軒」がラーメンブームの火付け役であることを特定した。「來々軒」が日本初のラーメン店であるかは定かではないものの、これが「東京ラーメン」の原型であることは調査から断定できる。
岩岡氏は「來々軒」の復活プロジェクトを進めるにあたり、2つの条件を出した。当時使っていた小麦を特定することと創業者の末裔の方々の承認を得ることの2つだ。
ラー博のプロジェクトチームは、「來々軒」の三代目の故・尾崎一郎氏の証言から、当時使っていた日清製粉の「鶴」と「亀」という小麦粉のルーツを探り、群馬県産の「さとのそら」という品種に行き着いて、これを使って麺を作ることにした。
スープや具材、丼などあらゆるパーツについても調査を重ね、「來々軒」のラーメンを再現できる土台を作って、創業者の末裔である高橋邦夫氏に提案をし、無事快諾されたという。
創業者の玄孫である高橋雄作氏は「來々軒」を復活させるにあたって、その運営と再現をお願いできるラーメン店を探した。ラー博の調査の結果を見て、「自家製麺」「小麦についての知識や技術」「醤油ラーメンの王道」の3つの条件を満たすお店でないと再現できないと考えた。結果、雄作氏の頭には「支那そばや」(横浜市)しか浮かばなかったという。「支那そばや」はラー博での営業を19年12月に終えたばかり。代表の佐野しおりさんもその大役にはじめは頭を悩ませたという。
「今回のお話は大変光栄なお話であると同時に、大きな責任を感じました。やはりラーメン史を語る上で原点のお店ですので、來々軒の名に泥を塗ることも出来ません。そして、かつてのラーメンはそんなに美味しくなかったのではないかという疑問もありましたが、文献などの調査を見ると、殆どの食材は国産をしっかり使って美味しいものが作られていたことがわかりました。かん水とメンマ以外はすべて国産を使っているんです。美味しいものが作れるならばチャレンジしようと思い、オファーを受けることにしました」(佐野しおりさん)
スープについては、名古屋種の親鶏に豚ガラ、野菜類を加え、煮干しを少し効かせている。麺も史実に基づき、青竹打ちの麺を作り上げた(1日100食限定/機械製麺も提供)。
チャーシューは今の主流である煮豚ではなく焼豚で、毎日焼きたてを提供。メンマは台湾産の乾燥メンマを3〜4日かけてゆっくり水で戻してから使うという丁寧な工程だ。当時の人気メニューだったシウマイも再現した。
食べたことはないのに懐かしさを感じる味わいで、歴史のストーリーとともに食べられる嬉しさもある。
新横浜ラーメン博物館の「淺草 來々軒」は10月14日(水)、プロジェクト開始から29年の時を経て念願のオープンとなる。
ラー博のプロジェクトには、単なる「再現」とは違うロマンのようなものがある。当時の歴史背景や復活に向けた思いを感じながら食べられる一杯に感謝したい。
※写真はすべて筆者による撮影