安保法案の採決強行 安倍首相の慢心が増幅させた混乱
国会対策だった「個別」と「集団」の使い分け
安全保障関連法案が15日、衆院平和安全法制特別委員会で強行採決され、自民・公明両党の賛成多数で可決された。野党議員らの怒号が飛び交った。衆院本会議の採決は16日に行われ、9月中の法案成立を目指す。
安倍首相は首相官邸で報道陣に「国民に丁寧に分かりやすく説明していきたい」と述べたが、各社世論調査をみると、親安倍色を露骨にしている産経新聞・FNNを除いて、他社の世論調査ではすべて「反対・不必要」が50%を上回っている。
過去最長の延長幅が設けられ、特別委で110時間を超える審議が行われた。安倍首相はこの日も「切れ目のない対応を可能とする平和安全法制が必要」と安全保障関連法案の意義を強調したが、国民の理解が深まったとはとても言えない。
旧社会党化した岡田・民主党
日本国憲法が「個別的」と「集団的」とを問わず、自衛権の行使を認めているのは自明のことである。
しかし「海外での武力行使」に歯止めをかけるため、内閣法制局は個別的自衛権(合憲)と集団的自衛権(違憲)という線引を使ってきた。この線引は1955年体制の社会党を納得させる国会対策に過ぎなかった。
国会でさんざん社会党に点数稼ぎのため追及させておいて、最後は「それは個別的自衛権の範囲内です」と内閣法制局長官が答弁して収めるという茶番劇が戦後、延々と繰り返されてきた。
しかし在日米軍基地が第三国に攻撃された場合、日米安保条約に基づき日本側に防衛義務が生じる。米国はこれを「集団的自衛権の発動」ととらえ、日本は国内向けに「個別的自衛権で対処する」と説明してきた。
世界標準から見れば、集団的自衛権を欠いた同盟関係など存在しない。英紙フィナンシャル・タイムズによると、集団的自衛権の行使を認めていない国は日本を除いてコスタリカだけだそうだ。
民主党の岡田克也代表は「違憲の疑いが極めて濃い法案が強行採決されたことに強く抗議する」と述べたが、2009年9月から12年12月まで政権を担い、あれだけ日本を混迷させた経験は何だったのか。
民主党の鳩山由紀夫首相が米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)移転問題で日米同盟を迷走させ、日・米・中の「等距離外交」を唱えて尖閣問題で中国に付け入るスキを与えたのをもう忘れたのか。
東シナ海の緊張を高めたのは安倍首相でも自公政権でもない。旧社会党と同じように「違憲」という言葉を金科玉条のように掲げ、安全保障関連法案に「ハンタイ、ハンターイ!」を言い募る民主党なのだ。
中国の国防費は20年で20倍
熊本県立大理事長の五百旗頭真(いおきべ・まこと)防衛大学学校長は11日付の西日本新聞で次のように述べている。
「中国は1992年制定の領海法に、わが国の沖縄県・尖閣諸島や南シナ海の島々も自国領土だと明記した。相手の抵抗力が弱く、状況が許すところから、それを実行に移す長期戦略のようだ」
「(中国の)国防費は冷戦後の20年間で20倍に増えた。日本が防衛力を多少強化しても、日本一国では対応しきれない。国際関係の活用が肝要だ。とりわけ日米同盟の強化だ。日米関係が強固で『不可分』なら、どんな国も日本に手を出せない」
日本周辺で攻撃された米艦を日本が放置すれば、日米同盟はそこで終わる。集団的自衛権の行使を限定的に認めて、法的な切れ目、作戦上生じる空白をなくしておくことは今後20年の東アジアの安全保障環境を展望する上で不可避の選択肢だ。
安倍首相の周辺から漂うナショナリズムの臭い
にもかかわらず、国内世論がここまで反対している大きな理由の一つに安倍首相とその周辺から猛烈に漂う国家主義的な臭いがある。
安倍首相のお気に入りの稲田朋美・自民党政調会長は6月中旬、連合国軍総司令部(GHQ)の占領政策や極東国際軍事裁判(東京裁判)を検証する新組織を設置する方針を明らかにした。
今後100年の安全保障を左右する安全保障関連法案を審議する国会が紛糾している最中に、一体どういう考えで、歴史の蒸し返しにしかならない東京裁判の検証を行おうと自民党は表明したのか。
同月下旬、安倍首相に近い自民党議員の勉強会「文化芸術懇話会」で、講師の百田尚樹氏が「反日とか売国とか、日本を貶める目的で書いているとしか思えない記事が多い」とマスコミ批判をぶった。
すると、出席していた議員から沖縄県の地元紙など報道機関に圧力をかけるような発言が相次いだ。とても正気とは思えない。自民党が自らの手でこうした勢力を一掃しない限り、日本の未来は危うい。
安倍首相の蹉跌
そもそも集団的自衛権の限定的行使容認を錦の御旗に掲げて正面突破を図った安倍首相の意図を疑う。岸信介、佐藤栄作、安倍晋太郎と続く政治一門のレガシー(遺産)づくりが狙いなのか。
フルサイズの集団的自衛権を論じると国民が強烈な拒絶反応を示すのは最初から分かっていたはずだ。個別的自衛権の側から始めて、その先の空白を埋めるためには限定的に集団的自衛権の行使を認めておく必要があることを丁寧に説明するのが筋だった。
それなのに安倍首相の米議会両院合同会議演説を控え、新たな「 日米防衛協力のための指針(ガイドライン)」で「地球規模での日米一体化」がうたわれた。これではフルサイズで集団的自衛権の行使を認めると言っているように聞こえてしまう。
しかも国会審議より先に米議会で国の命運を決する誓約書を読み上げてくるとは。国民が一気に引いてしまったのは当然と言えば当然である。
情けない「フグ答弁」
100年後の世代が今国会の答弁を読み返して、日本の将来を考えた議論が行われたとうなづける内容であってほしい。しかし、悲しいかな、安倍首相にも取り巻き連中にもその見識も認識もない。
自民党議員も、民主党議員も自分たちの一挙手一投足が今後、歴史の評価にさらされるという緊張感を持ってほしい。
横畠裕介・内閣法制局長官は6月19日、国際法上の集団的自衛権と限定的な集団的自衛権の違いを「フグ」に例え、「毒があるから全部食べたらそれはあたるが、肝を外せば食べられる」と答弁した。あまりの程度の低さに情けなさを通り越して、悲しくなる。
日本国憲法を制定する際、GHQとやりあった日本の法制局は「Too Logical Too Powerful(論理的過ぎて、手強すぎる)」と言われた。
それほど内閣法制局の前身である法制局は論理的だった。元法制局長官で、第1次吉田内各の国務相として日本国憲法の制定に多大な貢献をした金森徳次郎氏はこんなエピソードを書き残している。
「この憲法で国体は守られたのか、変更されたのか。どうなのか」と聞かれて、金森氏は咄嗟に「水は流れても河は流れず」と答弁した。
「本当に日本の国の特色とでもいうべきものは何であるかといえば、われわれの心の奥深く根を張っている所の心が、天皇の心と密接なつながりを持つておりまして、いわば天皇をもつてあこがれの中心として国民統合をなし、その基礎において日本国家が存在しておると思うのであります」「その点におきまして国体は変わらないのであります」
象徴天皇になっても、憧れの中心である天皇は変わらないという歴史に残る名答弁だった。
名人の剣、二刀の如く見ゆ
日本国憲法を審議していた憲法委員会では「かにかくに善く戦えり金森のかの『けんぽう』はそも何流ぞ」「金森は二刀流なり国体を変えて置きながら変わらぬという」というメモが回された。
金森氏は「名人の剣、二刀の如く見ゆ」と回想している。米軍に占領されたとは言え、当時の日本人は歯を食いしばり、誇りを失っていなかった。それに比べ、横畠長官の「フグ答弁」は歴史の検証にはとても耐えられない。
金森氏は憲法9条について「自衛戦争をすることは何等理論上の制限はないのである」と言い切っている。現行憲法は「他衛戦争」は認めていないものの「自衛戦争」まで否定していない。これが正しい憲法解釈である。
(おわり)