【深掘り「鎌倉殿の13人」】牧氏事件で重要な役割を果たした三浦義村の立ち位置とは
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、牧氏事件が勃発したが、三浦義村も重要な役割を果たした。義村が果たした役割について、もう少し詳しく掘り下げてみよう。
■牧氏事件と三浦義村
元久2年(1205)閏7月19日、牧氏事件が勃発した。北条時政は、平賀朝雅を新将軍に擁立し、現職の将軍の源実朝を殺害しようと計画した。牧の方が計画に協力したので、牧氏事件と称されている。
北条政子・義時は時政らの実朝暗殺計画を知ったので、時政邸にいた実朝をただちに自邸へと移した。ほとんどの御家人は政子と義時に味方したので、時政は窮地に陥った。万事休すである。
ドラマでは、実朝が訪問中の和田義盛邸を辞そうとしたとき、三浦義村が時政のもとに連れて行った。こちら、史実とは認められず、ドラマ上の創作と考えてよいだろう。
結論を先取りすると、義時らに負けると思った時政と牧の方は出家し、直後に鎌倉から伊豆へ追いやられた。上洛の京都守護だった朝雅は、事件の直後に在京武士らに襲撃され、自ら命を絶ったのである。
■重要な役割を果たした三浦義村
牧氏事件で重要な役割を果たしたのが、有力な御家人の三浦義村だった。義村は梶原景時の変、比企能員の乱、畠山重忠の乱において、重要な役割を果たしてきた。それは、牧氏事件でも同じである。
元久2年(1205)閏7月19日、時政の計画を知った政子・義時姉弟は、義村らを時政の邸宅に遣わし、実朝を奪還させた(『吾妻鏡』)。実朝を失った時政は観念し、ついに伊豆に追放されたのである。
それだけではない。時政らの陰謀が発覚した際、政子が相談したのは義村だった。義時は実朝を義村邸に連れて行くと、そのまま将軍の命令であるとして、時政を伊豆へと追放した(『愚管抄』)。時政は挙兵したわけではなかったので、未然に事件を防いだといえよう。
■まとめ
義村は政子・義時姉弟の良き相談相手であり、盟友でもあった。一方の時政は別に挙兵したわけでもないのに、あっという間に捕らえられ、伊豆へと送り込まれた。
牧氏事件とは言われるものの、実態としては政子、義時、義村が画策したクーデターだったのかもしれない。