中日、山崎武司の引退に思うこと。
山崎武司、引退の報を聞いて寂しくなった。
プロ野球生活27年目にしての引退決意。
チャンスで三振して、試合後にコーチに登録抹消を告げられ、高木監督に直談判して、「もう引退ます」と伝えるなど、いかにも一本気な武司らしいユニホームの脱ぎ方だ。
彼との付き合いは古い。1991、1992年、当時に、彼は、まだ独身で名古屋の知多にある実家からナゴヤ球場に通っていた。「飯とか楽でしょ?」。近所で火事が起きた時に、人命救助したりして有名になったりしていたのだが、武司の顔を見ると、「自宅から通うプロ野球選手って12球団見渡しても武司くらいじゃないのか?」という話をしたものだった。
自主トレでオーストラリアへ旅立つ前時には、母親が空港まで見送りに来ていた。
母を紹介され、ラウンジで武司とコーヒーを一緒に飲んでいるとは、突然、大声を上げた。「やばい! 財布が忘れた! かあちゃん。取りに帰ってくれ!」
愛すべき男である。
ある年、オープン戦でホームランやヒットが続いたことがあった。
「どうしたんや?」と聞くと、「英二のお告げのおかげだ」という。
本当に霊感のあった落合英二が、「このバットで打てる」、「この打席で打てる」「カーブが来るから」と、霊言を与えると、それがズバズバ当たった。
のちに落合英二に種明かしをされたときは、思わず吹き出した。
「本当に霊感で言ったのは1回だけ(笑)。後は適当なんだけど、武司さんってメンタルが弱いっしょ。自信をつけてもらうために言ったんです」
信じると、どこまでも。単純明快。一本気の男だった。
見かけによらず酒は一滴も飲めない下戸なのだが、豪気な性格で隠しごとができない。「ジャイアン」異名もよくわかる。
首脳陣とも、よく衝突した。
特に干せれた理由が明確にされず、彼のプライドが踏みにじられると、仕方がないとは引き下がらず、牙を剥いた。思い切り自己主張をして噛み付くのである。山田久志監督には、トレードを直訴した。オリックスに放出されると今度は伊原春樹監督と衝突した。試合前に球場を去るボイコット事件も起こした。後から、内幕を聞けば、どっちもどっちで、その行動は、子供じみてはいるが、思い込んだら一直線である。
腐るならとことん腐る。何度も引退を決意している。
しかし、彼は、野球に生かされた。
新球団、楽天に拾われた当時、山崎の話を聞く機会があった。
「もう辞めようと思ったこともあったけど野球が僕を辞めさせてくれなかったんです」
バッティングの天才、田尾安志監督の指導で、37歳にして新しいバッティング技術に開眼した。右足に重心を残して、右に打つ意識を植えつけたのである。
翌年に、野村克也監督と出逢うと、今度は、「配球を読む」というテクニックを学ぶ。これまでは、ほとんど真っ直ぐ狙いの変化球対応という本能に従ったバッティングだったが、野村監督の教えに従い、相手の配球の傾向を洗い、「相手の先手を取って狙い球を決める」という配球の読みで、39歳の年に43本塁打を打って両球団本塁打王に輝いた。
とりあえず信じてやってみる。
それが武司である。
素直で一本気な性格は、ようやく40歳を前にして彼の野球の技術に噛み合った。遅すぎたのかもしれないが、大器晩成を成し得たのは、ずっと変わらぬ、彼の思い込んだらどこまでも一直線……という愛すべきキャラクターゆえだと思う。
楽天時代は、ベンチで若い選手を叱っていた。
こういう選手がいると監督は助かる。
リーダーシップ、そして苦労して試行錯誤をしながら手にした野球技術……武司は、指導者としての素質を備えていると思う。
野手出身の監督のマネジメントとして最も重要なピッチャー交代と育成を任すことのできる投手コーチを隣に置くことができれば、ぜひ監督として見てみたい人物である。監督と衝突してきた過去があるだけに、選手のモチベーションを上げることには長けているとも思う。
山崎武司は、この日の引退の記者会見で「ヒットも2000本打てなかったし長嶋さんの444本を超える目標も叶わなかった。成績としては『足りない男』です。でも野手では誰よりも長く野球に携われた、野球生活ができたのがボクのひとつの誇りだと思います。野球の成績は『まあ頑張ったな』と言ってもらえるくらいはやったかなと」と言った。
“まあ”ではなく、本当によく頑張った……。
球場に顔を出すと、「またややこしい取材しに来てんでしょう?」と、いつも声をかけてくれる武司が、もうそこにいなくなると思うと淋しくなる。
黄色いランボルギーニ。
高らかな笑い声。
そして豪快なスイング。
山崎武司、永遠なりーー。