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「独眼竜」の伊達政宗の生涯は決して楽なものではなく、苦難の連続だった

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
伊達政宗。(提供:アフロ)

 最近の「刀剣ランキング」によると、日本刀で思い浮かべる人物の第3位は、伊達政宗だという。こちら。政宗と言えば、意外と楽な生涯を送ったように思えるが、実はそうではなかったので、その辺りについて考えることにしよう。

 永禄10年(1567)8月3日、米沢城主の伊達輝宗に待望の男子が誕生した。幼名を梵天丸と言い、のちに政宗と名乗った。ちなみに政宗の母は、山形城主の最上義守の娘義姫である。

 政宗は幼少時に病によって、右目を失明していた。それゆえ「独眼竜」と称されたが、このことは成長した政宗に暗い影を落とすことになった。

 天正5年(1577)11月15日、政宗は米沢城において元服した。その様子については、『伊達性山公治家記録』に「11月15日、米沢城で嗣君が藤次郎と称し、政宗と名を付けられた。伊達家九世の政宗公は文武の英才があって、伊達家を中興なさった。輝宗は政宗公を慕われて、祝って名付けたのである。政宗は固辞したが、輝宗は強く命じた」と記されている。

 伊達家では代々、将軍から一字を拝領して名乗っていた。持宗は将軍足利義持から、稙宗は将軍足利義稙から、晴宗は将軍足利義晴から、輝宗は将軍足利義輝から、といった具合である。

 しかし、天正元年(1573)15代将軍足利義昭は織田信長と決裂しており、将軍から一字を拝領するのが難しくなっていた。そこで、輝宗は伊達家中興の祖である政宗の名を与えたのである。これは、輝宗の強い期待のあらわれでもある。

 このように政宗に厚い期待が寄せられる中、突如輝宗は家督を政宗に譲ることを決定した。天正12年(1584)10月のことである(「伊達家文書」など)。

 輝宗は出家して「受心」という法名を名乗った。そして、輝宗は米沢の館山に城を築き、隠居したのである。輝宗の家臣たちもならって、次々と隠居したことを確認できる。

 翌年、輝宗が謀殺されると、政宗は東北の諸大名を相手にして戦いを繰り広げる。天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原北条氏討伐が開始されると、政宗は態度を鮮明にしなかった。

 結局、政宗は秀吉に従うことを決意し、小田原に出向いて滅亡を免れた。ほぼ同じ頃、勃発したのが母・義姫を中心とした謀反である。政宗は危うく毒殺されそうになったが難を逃れ、弟・小次郎を死に追いやることで家の維持を図った。

 天正19年(1591)、政宗は蒲生氏郷とともに葛西・大崎一揆を平定するが、逆に一揆扇動の嫌疑をかけられ、米沢72万石から岩出山58石に減封処分を受けた。

 政宗は文禄の役に出陣したものの、文禄4年(1595)に豊臣秀次が謀反の疑いで切腹させられると、関与を疑われ窮地にさらされた。最終的に嫌疑は晴れたが、政宗はかなり際どいところで豊臣政権下にあったといえよう。

 このように、政宗の前半生は、薄氷を踏むような厳しいことの連続だった。しかし、関ヶ原合戦では東軍の徳川家康に味方し、当初の約束だった100万石は与えられなかったが、家は幕末維新期まで続いたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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