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デスパイネ、ソフトバンク復帰。「出戻り助っ人」の系譜をたどる

阿佐智ベースボールジャーナリスト
シーズン前にはWBCキューバ代表メンバーとして来日していたデスパイネ

 キューバの至宝、アルフレッド・デスパイネがソフトバンクに復帰することになった。2年連続でペナント奪取に失敗した常勝軍団は、チームを一新すべく今シーズンに向けて大型補強を決行。メジャーからウィリアンズ・アストゥディーヨ、独立系アトランティックリーグのシーズン本塁打記録の48本をマークしたコートニー・ホーキンスの2人の打者を獲得する一方、チームの黄金時代を支えてきたデスパイネとジュリスベル・グラシアルの2人のベテラン打者をリリースした。しかし、昨年獲得したメジャー通算109本塁打のフレディ・ガルビスを含め、助っ人打者が機能せず、いまだ3人合わせて一軍で本塁打ゼロという惨状である。この状況に、リーグ優勝への切り札として日本で184本塁打を放っているデスパイネを呼び戻すことになった。

 このような「出戻り」助っ人は、過去にもいた。1960年代後半に、それまで「灰色の球団」と揶揄されていた阪急ブレーブスに様々な戦術を持ち込み、常勝軍団に育て上げたダリル・スペンサーは、チームがパ・リーグ連覇を果たした1968年シーズンに18本塁打に終わると退団。いったん現役を引退していたが、1971年に兼任コーチとして阪急に復帰したものの、この時点で42歳になっていた彼に往年の面影は残っていなかった。結局、もう2シーズンプレーしたものの、規定打席に達することなく、打率も2割台半ば、本塁打は2年合わせて10本でバットを置いている。

 平成はじめの西武ライオンズ黄金時代を支えたオレステス・デストラーデも「出戻り組」のひとりである。1989年のシーズン途中にパイレーツから西武に移籍した彼のその後の活躍は今更述べる必要もないだろう。秋山・清原・デストラーデと続くクリンナップは、日本プロ野球史上最高と言っていい。

 チームがパ・リーグ3連覇を成し遂げた1992年シーズンも41本塁打を放ち、3年連続のキングに輝くが、地元マイアミに新球団が誕生するのを受けて、メジャー復帰を決意。4番打者としてフロリダ・マーリンズに迎えられた。

 しかし、メジャーでは20本塁打を放ったものの、打率.255と主砲としては物足りない数字に終わると、翌1994年シーズン初めにリリースされてしまう。そんな彼に西武は再びオファーを出し、1995年、彼は日本に戻ってくる。しかし、彼の場合、半年のブランクは大きく、42試合で5本塁打と期待を大きく裏切ることとなり、大敗の試合でマウンドに登ったことが話題になったくらいで、シーズン途中の6月に自ら退団を申し出、現役生活にピリオドを打っている。

 広島カープ史上最高の助っ人とも称されるルイス・ロペスもカープで2度プレーしている。1995年シーズンをインディアンス傘下の3Aバッファローで主軸打者として過ごした彼は、翌96年シーズンから広島でプレー。2年連続で打点王を獲得するなど活躍したが、1997年オフ、契約交渉が決裂し、ダイエー・ホークスに移籍する。ここでも彼は3割近い打率を残すが、打点に関しては前年の112から68へ大きく落としたこともあり、契約更新はならず、1999年は独立系のアトランティックリーグのサマセット・パトリオッツでのプレーを余儀なくされる。翌2000年シーズンの開幕もパトリオッツで迎えたが、シーズン途中に広島からの再オファーを受け、日本球界に復帰。以後、3シーズンで57本塁打を残し、広島を退団後は、パトリオッツにも「出戻っ」て、さらに2シーズンプレーしてバットを置いている。

 日本ハムファイターズに「出戻った」のは、NPB6シーズンで102本塁打を残したシャーマン・オバンドーだ。ただし、彼がファイターズに復帰したときには、ホームグラウンドは東京ドームから札幌ドームに変わっていた。

 メジャーでは1996年の89試合8本塁打がピークで、4シーズン85安打13本塁打に終わったこのパナマ人は、1998年に活躍の舞台をメキシコに移し、.360の高打率を残し、ホームランもシーズン序盤で10本放つと、これに目をつけた日本ハムが5月末に獲得した。彼は日本の野球にもすぐ慣れ、20本塁打を残し、打率も3割をマーク。その後も、日本ハムの主軸として2002年までプレーする。そして、いったん2003年にメキシコに戻るが、翌04年、アテネ五輪のため小笠原道大、金子誠の2人の主力打者がシーズン途中に離脱するという事情を察してか、自ら来日。古巣に売り込みをかけ、復帰を果たした。以後2シーズン、バリバリの主力というわけではないものの、チームに欠かせないパーツとしてプレーし、本人の希望どおりファイターズのユニフォームで現役生活を終えている。

ロッテ時代のシコースキー
ロッテ時代のシコースキー写真:YUTAKA/アフロスポーツ

 マウンド上で腕をグルグル回すパフォーマンスで知られたブライアン・シコースキーは2球団で出戻りを経験している。

 2001年シーズン途中にロッテに入団。最初先発を務めるも、その後は中継ぎエースとして活躍するが、助っ人刷新のチーム方針によりリリース。それでもブルペンの層の薄さに悩む巨人に拾われ、2シーズンで132試合に登板するというフル回転の活躍を見せるが、またもや監督交代に伴う戦力の刷新という理由で解雇される。ここで彼はいったんアメリカに戻り、2006年シーズンはパドレスとインディアンスでプレー。リリーフとして30試合に登板し、3勝を挙げると、ヤクルトが獲得した。

 2007年シーズンは29試合で1勝7ホールド1セーブに終わるが、ヤクルトは必要な戦力として評価。シーズン後に残留交渉に入るが、この交渉が決裂。自由契約が公示されると、古巣のロッテが触手を伸ばし、獲得。以後2シーズンに渡ってロッテの「勝利の方程式」の一角を占めたが、またもや契約交渉が決裂し、2010年は西武でプレーすることになった。西武では抑えに抜擢され、パ・リーグ最多の33セーブを挙げたが、翌2011年は肘の故障もあり満足なピッチングができず、シーズン途中に解雇された。この時点で36歳だったが、彼は肘の遊離軟骨の除去手術を受け、翌年カナダのセミプロリーグでリハビリをした後、西武の入団テストを受け2012年11月末に再入団を果たすが、2013年シーズンはファームのみの登板に終わり、ユニフォームを脱いだ。

 シコースキーは5年のブランクを経てロッテに出戻ったが、古巣オリックスに戻るのに実に8年を費やしたのがフェルナンド・セギノールだ。

 セギノールと言えば、2006年に北海道移転後初優勝した日本ハムの主砲というイメージが強いが、日本でのプロキャリアを始めたのは、2002年のオリックスでのことである。このときは23本塁打を記録するも、104三振と粗さが目立ち、1シーズンでリリースされ、アメリカに戻っている。2003年はヤンキースでたった5試合の出場、1安打に終わるが、3Aでの28本塁打に目をつけた日本ハムが広い札幌ドームでもホームランが打てることを期待して獲得。ここで彼の長打力が花開く。球団の目論見通り、広いフィールドと高いフェンスを物ともせず、44本塁打でキングに輝くと、4シーズンで112本塁打を記録し、札幌ドームの最強助っ人として彼の名はファンの記憶に刻み込まれている。

 しかし、常に戦力の新陳代謝を図る球団の方針は、年々数字を落とす彼にも容赦なく、打率.247、21本塁打に終わった2007年をもって契約を終了する。

 2008年は、ロッキーズのキャンプに参加するも、開幕直前にリリースされ、メキシカンリーグや3Aでプレーするが、シーズン半ばに楽天が獲得。8月にチームに合流してからは好調を維持し、39試合で13本塁打を放ち、契約更新を勝ち取った。しかし、翌09シーズンはフルシーズンプレーしたにもかかわらず14本塁打に終わり、楽天から戦力外を通告され、新天地を独立系アトランティックリーグに求めるが、2010年シーズン途中にオリックスと契約を結ぶ。8年ぶりとなった復帰だったが、ホームグラウンドは神戸から大阪へ、チーム名はブルーウェーブからバファローズに変わっていた。

現役の最後はロッテで送ったスタンリッジ
現役の最後はロッテで送ったスタンリッジ

 先程からアトランティックリーグという独立リーグの名が度々出ているが、この独立リーグ最高峰と言われているリーグは、メジャーや日本球界からあぶれた選手たちの避難所としての機能を果たしている。ここでは、NPB10シーズンのキャリアをもつジェイソン・スタンリッジも2009年シーズンを送っている。

 2007年シーズン途中にロイヤルズからソフトバンクに移籍した彼は、初年度は当初のリリーフから先発に回り7勝を挙げる活躍を見せるが、翌年未勝利に終わると解雇を通告される。そして、先述のロペスもプレーしたパトリオッツでプレーした後、阪神と契約し、以後4シーズンに渡り先発の柱として35勝を挙げた。しかし、2014年シーズンを前に助っ人の補強を行った球団の方針により押し出されるかたちで退団することとなり、そこに古巣ソフトバンクが手を上げ、6年ぶりに復帰することになった。ソフトバンクでは2年連続二桁勝利と阪神時代以上の活躍を見せたが、若返りを図りたい球団の方針もあり、契約満了をもって退団。現役最後の2シーズンはロッテで送り、ここでも計12勝を挙げている。

オリックス時代のフェルナンデス
オリックス時代のフェルナンデス写真:アフロスポーツ

 「出戻り助っ人」たちは、ある意味、需要が高いため、日本でも複数の球団から声がかかる。その中でも、ホセ・フェルナンデスは、間に国外球団をはさみながらも、日本球界だけで移籍を6回も繰り返し、パ・リーグ4球団でプレー、うち3球団で「出戻り」を経験している。

 彼はメジャーを経て、2002年韓国SKワイバーンズで45本塁打を記録すると、翌年来日。ロッテで打率.303、32本塁打をマークしたものの、その守備力が疑問視されたこともあり、自由契約となった。そんな彼を獲得したのが西武で、彼もチームの期待に応え、33本塁打を記録し、12年ぶりの日本一に貢献した。しかし、翌年も好成績を残すも、シーズン後にリリース。今度は楽天から声がかかり、ここでは3シーズンプレーする。

 楽天の最終年もパ・リーグ最多の40二塁打を放ったものの、やはりディフェンス面の不安がつきまとい、リリース。それでもその力は捨てがたいのか、今度はオリックスが獲得した。オリックスでもレギュラーとしてDHだけでなく、ファースト、サードの守りにもついたが、1シーズンで解雇。それでもなおその需要は絶えることなく、その後の4シーズンは、西武、楽天、オリックスと「いつか来た道」をたどり、2013年限りでバットを置いている。

日本の独立リーグでは「レジェンド」と言える活躍をしたカラバイヨだったが、NPBでは思うような成績は残せなかった。
日本の独立リーグでは「レジェンド」と言える活躍をしたカラバイヨだったが、NPBでは思うような成績は残せなかった。

 NPB、独立リーグで「出戻り」を経験したのはオリックスで通算3シーズンプレーしたフランシスコ・カラバイヨだ。

 ベネズエラのメジャーアカデミーでプロキャリアをスタートさせた彼は、2009年にジャパニーズドリームを夢見て来日し、四国九州アイランドリーグの高知ファイティングドッグスでプレー。リーグ記録の18本塁打でキングに輝いている。翌年にはルートインBCリーグの群馬ダイヤモンドペガサスに移籍し、前半戦だけで15本塁打を放つと、オリックスが契約を結んだ。残りのシーズンでこの彼の本塁打数を上回る打者は現れなかったので彼は2つの独立リーグで連続ホームランキングに輝いた。

 オリックスでの残りシーズンは最後に手首の骨折という大怪我をしたものの、125打席で7本塁打と翌年以降を期待させる数字を残し、残留が決定。しかし、手首の故障が再発し、結局4試合の出場に終わると、自由契約を言い渡された。

 ここで彼はいったん日本を離れ、2012年シーズンはアメリカの独立リーグ、カンナムリーグや母国のウィンターリーグでプレーするが、翌2013年は再び日本に舞い戻り、群馬でプレー。ホームランを量産。2014年にはBCリーグ記録の33本塁打を放ち、2年連続のキングに輝くと、オリックスが再契約。2015年シーズンは、5月までに11ホーマーと好調を維持し、4番を務めることもあったが、その後急失速。結局このシーズン限りでリリースされると、群馬に3度めの「出戻り」を果たし、以後、引退する2018年までリーグのホームラン王を独占した。

 以上、何人かの「出戻り」選手を紹介したが、彼らは、何シーズンかのブランクを経て古巣に復帰している。今回のデスパイネのように、リリースされたその翌シーズンに再び声がかかったわけではない。そもそも、いったんクビの通告をした選手に対して、その舌の根が乾かぬうちに再オファーを出すなど、球団のスカウティングのまずさを露呈するようなものである。

 そういう意味では、今回のデスパイネと重なるのは、トロイ・ニールのケースだろう。オリックス・ブルーウェーブ黄金時代の立役者で、日本一に輝いた1996年日本シリーズMVPのスラッガーだった彼だが、毎年のように三桁の三振を記録するなど粗さも目立ったことから、25本塁打を放った1997年シーズン限りで球団からリリースの通告を受ける。翌年彼はエンゼルスと契約を結び、3Aでシーズンをスタートさせたが、早くも4月末に長打力不足に悩む古巣からのオファーを受け、オリックス復帰。残りのシーズンで28本塁打を記録し、その後も2シーズンオリックスでプレーした。

 今回のデスパイネも、球団側からすれば、年々衰えが目立つようになり、守備力は期待できないと、新戦力に目が行ったのだろうが、日本で残した実績は伊達ではない。彼もニールと同じく、それなりの数字を残すだろう。しかし、ニールも復帰したシーズンは気を吐いたものの、翌年以降急激に数字を落とし、日本を去る2000年は55試合で7本塁打。韓国で送った現役最終年は17試合で1本塁打に終わっている。

 デスパイネがそのキャリアの最終盤に差し掛かっていることは間違いない。しかし、その彼の経験が復帰後生かされればソフトバンクのペナント奪取が見えてくるのも確かだ。

WBCに向けての強化試合ではファーストでシートノックを受けるデスパイネ
WBCに向けての強化試合ではファーストでシートノックを受けるデスパイネ

 (キャプションのない写真は筆者撮影)

ベースボールジャーナリスト

これまで、190か国を訪ね歩き、23か国で野球を取材した経験をもつ。各国リーグともパイプをもち、これまで、多数の媒体に執筆のほか、NPB侍ジャパンのウェブサイト記事も担当した。プロからメジャーリーグ、独立リーグ、社会人野球まで広くカバー。数多くの雑誌に寄稿の他、NTT東日本の20周年記念誌作成に際しては野球について担当するなどしている。2011、2012アジアシリーズ、2018アジア大会、2019侍ジャパンシリーズ、2020、24カリビアンシリーズなど国際大会取材経験も豊富。2024年春の侍ジャパンシリーズではヨーロッパ代表のリエゾンスタッフとして帯同した。

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