赤道直下での真冬のコウシエンー「アジア甲子園」ー完結
野球界はストーブリーグ真っ盛りだ。そんな年の瀬に赤道直下で「甲子園」が行われた。
無論、日本で行われている高校野球の全国大会とは別物だ。現在「甲子園」はジャンルを問わず高校生代の全国大会の代名詞ともなっている。その一方で、「日本野球」がひとつのブランドとなった今、グローバルな規模では今一つ知名度の低い野球を世界中に広めようという志をもった者たちが「ヤキュウ」を携えて海を渡っている。その際、その土地で蒔いた野球の種を収穫すべく、つまりひとつのかたちにしようと大会を開くとき、世界で最も盛り上がるアマチュア大会と言っていい「コウシエン」のブランドを拝借することがある。今回、インドネシアで行われた高校世代の大会もそのひとつで、「アジア甲子園」と銘打たれ、12月17日から21日までの日程で、首都ジャカルタで実施された。
仕掛け人は、現在シンガポールを拠点にコンサルティング業をグローバルに展開している柴田章吾さんだ。彼は幼少時の難病を克服し、甲子園出場を果たし、名門明治大学を経て巨人に入団した経歴をもつ。プロでは育成選手のまま3シーズンで現役を終えたが、引退後、現役大学生に混じっての「就活」を経験。コンサルティングの世界に入り、その後独立。弱冠35歳にして億単位を売り上げる企業のトップに立つまでになった。ビジネスがようやく軌道に乗ったとき、柴田さんの頭をよぎったのが、いったん離れてしまった野球のことだった。
そこで柴田さんは、一般社団法人として海外野球振興会を設立。本業と並行して東南アジア地域への野球普及活動を始めた。そしてこの度、この地域最大の2億8000万の人口を抱えるインドネシアを舞台に高校世代の野球大会を開くという壮大な計画を実行に移した。
マーケットとしてのインドネシアの魅力
インドネシアと野球はなかなか結び付かないが、実は世紀が変わって以降、この国の経済の成長と歩みを同じくするようにその人気がじわじわと高まってきている。6年前に行われたアジア大会では、主会場となったゲロラ・ブン・カルノスポーツセンターに建造された初の野球専用スタジアムには連日大勢の観客が訪れ、決勝の日本対韓国戦は満員となった。
そのように徐々に野球の競技人口が増えてきている大国インドネシアには、日本企業も多数進出している。そのような企業の多くは、かつての安価な労働力を求めての生産のアウトソシングではなく、日本の2倍以上の人口と29.9歳という平均年齢の若さからくるマーケットとしての将来性を求めての進出を目指している。柴田さんが「甲子園」をインドネシアで開こうと考えたのは、そのような企業のニーズにも応えることができるのではないかというビジネスマンとしての嗅覚があってこそのことだった。
大会は「甲子園」にならい、参加8チームによる入場行進から始まった。さすがにアメリカとほぼ同じの東西の幅をもつこの島嶼国全土からのチームの参加とはいかなかったが、首都の位置するジャワ島だけでなく、現在新首都が建設されているカリマンタン島からも1チームを加え、「全国大会」の体裁を整えた。
大会は8チームを2つのグループに分け初日から予選リーグを行い、20日に各グループ上位2チームによる準決勝が、21日に決勝が行われた。決勝の後には。今回の出場チームからの「インドネシア選抜チーム」と甲子園出場経験のある元選手たちによる「日本選抜チーム」のエキシビションマッチが行われた。これには「本番」さながらのチアと吹奏楽団による応援団が日本から駆け付け、大会のフィナーレに花を添えた。
見えてきた課題
エキシビションマッチが日本チームの圧勝に終わったことからは、現在のインドネシアの野球のレベルをうかがい知ることができるだろう。選手のほとんどはネットを通じてMLBや日本のプロ野球を目にし、「夢は国外でプロ野球選手」と口をそろえるが、それも現実をわかっていないゆえのことである。NPBの数球団もこの大会に人を派遣していたが、それは東南アジア地域からのスカウティングのためというより様子見というのが本音だろう。実際試合を実見していても、故障防止のための40球という投手の球数制限がかえって足枷になり、先発投手が降板した後の試合後半は、四球が増え、野手も集中力が切れエラーが多発し、緊張感のなくなる試合が多かった。とくに層の薄い地方から参加のチームにその傾向が目立った。
この大会直前に中学世代、つまりU15の大会の決勝が別の場所で行われていたのだが、正直、この「甲子園」よりその決勝の方がプレーレベルは高かった。そのことは事前にこの国の野球を視察した柴田さんもわかっていたようだ。
「高校世代」の大会と言いながら、この大会の年齢枠は14~19歳。実際には中学2年から大学1年生まで出場が可能だった。こうでもしないと各チーム、選手を集めることができないのだ。
インドネシアの野球はクラブチーム中心である。「部活」としての野球部もなくはないが、この国で野球をする場と言えは、基本的にはクラブチームとなる。
各クラブは、年齢別にチームを編成するのだが、多くのクラブの活動の重心は中学世代となっている。道具に金のかかる野球は、この国では富裕層のスポーツである。その富裕層の中学生にとっての「習い事」のひとつとして野球が存在しているのだが、彼らは高校に上がると途端にインドネシアの野球シーンから消えてしまう。より本格的にプレーしたい選手は日本やアメリカへの留学という道を選び、大学時点での留学を目指す者は勉学の方に専念するようになるからだ。その結果、「高校野球」となると途端にレベルが落ちてしまうという悩みをこの国の野球は抱えている。
そのため、今大会では、高校世代から上下1歳ずつ枠を広げ、選手の確保に努めた。実際、「甲子園」に先立って行われたU15世代の大会で決勝ホームランを放った日本人中学生も、大学1年だというアメリカ人選手もこの大会には参加していた。
その中にあってひときわ目立った活躍をしていたのが、柳川高校3年生のウン・ゲルハルド君だった。幼い頃から甲子園に憧れ、日本の高校進学を選んだ彼だったが、はじめは日本の高校野球の練習量の多さに音をあげたという。強豪にあってベンチ入りを果たすことなく最後の夏を終えることになったが、身につけた流暢な日本語で一流大学への進学切符を手にした。来年の春からは目標を甲子園から神宮に変えて野球を続ける予定だ。
内野、捕手、投手の「三刀流」でチームを準優勝に導き、最後のエキシビションマッチでも先発のマウンドに立った彼は、日本の元球児たちとの試合が一番充実していたと笑顔を見せていた。
「甲子園」を知らない選手たちの視線の先にあるもの
しかし、ウン選手のような「甲子園」に憧れを抱いていた選手はむしろ少数派だ。インドネシアの野球少年たちがネットを介して視聴するプロ野球の試合と言えば、やはりメジャー。「プロでプレーするなら」、まだ手の届きそうな日本や韓国だと彼らは言うが、そのまなざしはやはり世界最高峰のリーグに向いている。
大会中、数名の選手に尋ねたが、日本人以外のほとんどの選手は「コウシエン」のなんたるやをわかっていなかった。チームによっては事前に日本の高校野球の動画を見せていたところもあったようだが、アマチュア、それも自分たちと同じ世代の選手のプレーに大勢のファンが熱狂することにいまひとつピンと来ないようだった。
しかしそれもある意味仕方のないことだ。平日夜や休日には野球場のあるゲロラ・ブン・カルノ公園で多くの市民が、ジョギングをはじめとする各種スポーツを楽しむほどスポーツ熱の高まっているインドネシアだが、野球はサッカー、バドミントンが人気のこの国にあって「その他大勢」のひとつにすぎない。また、「プロ」が存在しない中、選手たちが「より上」よりは「楽しく」に重きを置いてプレーするのもある意味当然と言える。
しかし、「より高みへ」を目指すことは、競技者にとっても、観戦者にとってもスポーツの醍醐味であることは、間違いないだろう。切磋琢磨の向こうにある景色をこの国の少年たちが見るようになったとき、世界の野球の勢力図は変わるかもしれない。そのきっかけとして「アジア甲子園」は、大きな意義ある試みだったと言えるだろう。
(写真は筆者撮影)