【九州三国志】島津義虎、守護の影に生きた男!薩州家から宗家へ、波乱に満ちたその生涯
天文5年(1536年)、島津実久の長男として生まれた義虎は、室町幕府12代将軍・足利義晴から偏諱を受け「晴久」と名乗りました。
しかし父・実久が島津忠良・貴久親子に敗れた後、義虎は宗家に臣従し、義久の長女・於平を室に迎えることで和解を図ります。
この和睦は実久没後に成立したとされ、以降、義虎は宗家に仕える立場となりました。
とはいえ、義虎は独自の行動を見せることもありました。
永禄6年(1563年)には上洛して将軍足利義輝に拝謁し、「義」の字を受けて「義虎」と改名。
さらに、肥後の相良氏や東郷氏とたびたび争いを繰り広げました。
天草の長島を巡る戦いや羽月城守備の不手際で義久の怒りを買ったこともありましたが、天正9年(1581年)の相良氏討伐や沖田畷の戦いでは軍功を挙げ、島津一門において宗家当主義久に次ぐ地位を築きました。
天正13年(1585年)、義虎は50歳で没します。
義虎の子孫は新納氏や入来院氏を継ぎ、薩摩藩の名家として存続。義虎の系譜は後に光久以降の藩主にも受け継がれました。
戦国の波に揺れながらも、一族の未来を支えた義虎の生涯は、島津家の歴史の一部として今も語り継がれています。