【九州三国志】島津家存続の危機を乗り越えた交渉術!義弘、激動の時代を生き抜き、薩摩を守る
関ヶ原の敗戦後、島津義弘は薩摩に戻りつつも徳川との和平交渉を進めました。
その交渉は、義弘が関ヶ原で重傷を負わせた井伊直政や福島正則、さらには近衛前久を通じて行われ、複雑な調整が続きました。
一方、徳川家康は九州諸大名に島津討伐を号令しましたが、島津側の1万を超える健在な兵力や、海賊行為の脅威を盾にとった島津家の圧力により、最終的に討伐は断念されます。
この間、家康は「義弘の行動は個人のものであり、島津家全体には関係ない」として本領安堵を認める形で講和が成立しました。こうして島津家の存続が確保されたのです。
その後、義弘は大隅国加治木に隠居しました。
隠居生活では若者の教育に力を注ぎ、武士としての心構えを説きました。
そして元和5年(1619年)に同地で死去。享年85。
その死を惜しんだ13名の家臣が殉死したと言われています。
辞世の句には「天地の 開けぬ先の 我なれば 生くるにもなし 死するにもなし」など、壮大で孤高な心境が表れています。
義弘を第17代島津家当主とする認識は、幕末に編纂された『島津氏正統系図』が基になっていますが、近年の研究では義弘は正式な当主ではなかったとの説が主流です。
しかし、島津宗家や尚古集成館では系図重視の観点から現在も義弘を17代当主としています。
島津義弘は薩摩の歴史において、その剛勇と知略で家を守り、混乱の中でも武士の矜持を示した人物として今も語り継がれています。