【九州三国志】島津義弘、関ヶ原を駆ける!決死の退却戦が刻んだ伝説の戦い
関ヶ原の戦いを迎える直前、島津家では豊臣方への立場を巡り、義久と義弘の間で意見が分裂していました。
義弘は大坂にわずかな兵と共に滞在し、国許の軍勢を率いる権限を持たず孤立。
最終的に西軍に参じるも、石田三成ら西軍首脳から軽視され、孤立感を深めていきます。
一方で、関ヶ原本戦では西軍の崩壊を目の当たりにし、兵の退路を断たれるという窮地に立たされました。
義弘は自刃を決意しましたが、甥・島津豊久らの説得を受け、決死の撤退を決意。
敵陣を突破するため、合印や旗指物を捨てるなど死を覚悟した島津隊は「捨て奸」と呼ばれる戦法を駆使して敵の追撃を阻止。
豊久や家老・長寿院盛淳が身代わりとなり、多くの将兵が犠牲となる中、義弘は奇跡的に生還しました。
敵陣を突破しながらも、井伊直政らの追撃を受け続けましたが、最終的に家康の追撃中止命令や追撃隊の負傷によって無事に薩摩へ帰還します。
この壮絶な退却戦は「島津の退き口」として語り継がれる伝説となりました。
義弘の帰還は、わずか80人程度という少数の生存者を伴うものでした。
退却中には妻を救出し、摂津住吉で船を整えた後、黒田如水配下の村上水軍勢との戦闘も繰り広げられるなど波乱に満ちたもの。
薩摩への帰国後、義弘の行動は「死中に活を見出す」と称賛され、後世に島津家の武威を伝える象徴的な出来事となりました。
関ヶ原の敗北がもたらした挫折の中でも、この退却戦は義弘と島津家に強靭な精神力と武士道を刻む一章となったのです。