【九州三国志】島津義弘、剛勇と智略の武将!戦乱の世に薩摩の名を轟かせた生涯
天文4年(1535年)、島津貴久の次男として伊作城に生まれた義弘は、幼名を忠平といい、のちに室町幕府15代将軍・足利義昭から偏諱を受け義弘と名乗りました。
初陣は天文23年(1554年)の岩剣城の戦いで、大隅国の国人衆を破る武功を挙げましたが、数々の戦で幾度も重傷を負いながらも、兄・義久を補佐して薩摩の勢力拡大に貢献したのです。
木崎原の戦いでは300の兵で3,000の敵軍を奇襲し勝利を収め、耳川の戦いでは大友氏の大軍を破るなど、義弘は数々の戦場でその剛勇を示しました。
肥後や日向の国人衆を討伐し、薩摩の版図を広げる一方で、天正15年(1587年)の豊臣秀吉の九州平定軍との根白坂の戦いでは奮戦するも敗北を喫します。
兄・義久が降伏する中、義弘は抗戦を主張しましたが、説得を受けて降伏。
以降は豊臣政権下で羽柴姓と豊臣の本姓を授けられ、従五位下侍従に叙されます。
義弘の剛毅な生き様は薩摩の民に深い印象を残しました。
多くの武功を挙げながらも、薩摩の存続を第一に考えた義弘の生涯は、戦国の世における武将の誇りと献身を体現しています。