【九州三国志】鬼石曼子と恐れられた男!豊臣政権下、島津義弘の戦功と伝説
島津義弘は、豊臣政権下での文禄・慶長の役に参戦し、その剛勇で名を馳せました。
文禄の役では軍役動員が遅れ、義弘は単身で名護屋へ向かうも「日本一の大遅陣」と嘆く事態に。
それでも朝鮮半島での展開に従事し、和平交渉中には嫡男・久保を失うという悲劇も経験しました。
慶長の役では漆川梁海戦で朝鮮水軍の将・元均を討ち取り、さらに泗川の戦いでは7,000の兵で明・朝鮮軍の20万とされる大軍を破る大勝を収めました。
この戦果は徳川家康も「前代未聞」と称賛し、義弘の軍才を伝説化する要因となったのです。
また、露梁海戦では明・朝鮮水軍の待ち伏せを受けつつも明副将・鄧子龍や朝鮮水軍の李舜臣を討ち取り、小西行長軍の退却を成功させるなど、日本側の作戦目標を達成しました。
義弘の勇猛さは「鬼石曼子(グイシーマンズ)」として敵に恐れられ、日本側の記録にもその異名が刻まれています。
朝鮮の役での功績は島津家の加増につながり、義弘の名声は幕末に至るまで薩摩の武威を象徴する存在となりました。