関ヶ原合戦後、毛利輝元の政僧・安国寺恵瓊がたどった悲惨すぎる最期
大河ドラマ「どうする家康」では、関ヶ原合戦で西軍が敗北し、東軍が勝利した。その直後、西軍の首謀者たちは逃亡したものの、直ちに捕縛され、悲惨な末路をたどった。安国寺恵瓊もその1人であるが、どのような末路をたどったのか確認しよう。
慶長5年(1600)9月15日の関ヶ原合戦後、南宮山を離れた恵瓊は、一路京都を目指したという。恵瓊は、合戦前日に毛利氏が東軍に寝返った事実を知らなかった。
すでに60歳を超えた恵瓊が、敵の目を逃れつつ道なき道を分け入ったことは、体力的にも大変厳しかったと想像される。捕らえられたら死罪は免れなかっただろうから、必死だったに違いない。
恵瓊の逃亡経路は近江佐和山(滋賀県彦根市)、坂本(同大津市)そして京都鞍馬(京都市左京区)というものだった。当初、鞍馬の月照院に潜んでいたが、次に貴船(同上)を経て建仁寺(京都市東山区)に隠れた。
このように恵瓊が寺院を逃亡先に選んだのには、もちろん理由があった。当時、寺社はアジールと呼ばれるものに相当し、世俗の権力が踏み込むことができなかったのである。
とはいえ、恵瓊はいつまでも逃げ回っているわけには行かず、寺院が匿うにも限界があった。徳川方でも、血眼になって恵瓊の行方を探していたのはいうまでもない。
9月22日、恵瓊は六条付近で逃亡生活を送っていたが、京都所司代の奥平信昌によって捕らえられた。捕まった恵瓊は、坂本にいた家康のもとに送られた。恵瓊は西軍の中心的な役割を果たしていたので、罪を逃れることはできなかったのである。
恵瓊は石田三成、小西行長らとともに六条河原で処刑され、三条橋で梟首となった。毛利家を心底支えようとした恵瓊にとっては、さぞかし無念だったに違いない。
恵瓊処刑後の扱いについては、後日譚がある。西笑承兌は奥平信昌に対し、恵瓊の遺骸の受け取りを申し出た。恵瓊には親族がいなかったので、哀れんだのだろう。
ところが、信昌は奉行衆の副状がないので、恵瓊の死骸を渡すわけにはいかないと突っぱねた(「西笑和尚文案」)。これでは、恵瓊の葬儀ができない。
西笑承兌は身寄りのない恵瓊を葬ろうと考えたに違いないが、それすらも拒否されたのである。高僧でもあった恵瓊にとって、あまりに悲しい最期であった。
話は、ここで終わらない。関ヶ原合戦後、毛利氏は120万石から30万石に領知を減らされたうえ、長門・周防に移された。毛利氏はこの失態を誤魔化すため、西軍に与した責任をすべて恵瓊に押し付けた。
その主導的な役割を果たしたのが吉川広家である。それゆえ、恵瓊は長らく「悪僧」、「佞僧」と蔑まれ、死後も安らかに眠れなかったのである。
主要参考文献
渡邊大門『関ヶ原合戦全史 1582-1615』(草思社、2021年)