横浜で復活した「モカルーロ」。伝説のフランス菓子店「エスワイル」から約70年、各店が受け継ぐ味とは?
2024年4月29日、横浜の老舗「ホテルニューグランド」が新店舗「S.Weil by HOTEL NEW GRAND」をオープン。初代総料理長の弟子によるフランス菓子店の看板商品を受け継ぐ「モカルーロ」が話題だ。その味を継承する各店と共に紹介する。
1927年開業「ホテルニューグランド」の新たな挑戦!初代総料理長サリー・ワイルの思いを受け継ぐ新店舗
横浜・山下町で1927年に開業した老舗「ホテルニューグランド」が、2024年4月29日、新店舗「S.Weil (エスワイル)by HOTEL NEW GRAND」をオープンした。場所はホテルからほど近い「グランドメゾン山下公園」1階(横浜市中区山下町31番地7)で、独立した路面店となっている。
「ホテルニューグランド」の開業にあたってパリのホテルから招聘され、30歳の若さで初代総料理長に就任したスイス人、サリー・ワイル氏は、日本における「西洋料理の父」と呼ばれる人物だ。
「シーフードドリア」、「スパゲッティ ナポリタン」、「プリン・ア・ラ・モード」と、このホテルで生まれたメニューは広く知られ、ここでの修業を経て、日本の料理・菓子業界を牽引した職人達が大勢いる。
1929年にホテルのベーカー部に入社してワイルに師事し、1930年よりチーフベーカーを務めた大谷長吉氏もその1人だ。大谷氏は1910年・東京生まれ。彼は1951年に、師の名前をつけたフランス菓子専門店「S.Weil(エスワイル)」(※以下、「エスワイル」)を銀座で創業。1955年に神田小川町へ移転開業し、長年に渡りこの地で愛された。その後、2004年11月に文京区春日に移転。2011年8月に惜しまれつつ閉店した。
大谷氏と共に働き、その後も製菓業界に多大な貢献を成した菓子職人は数多い。大谷氏と同じく「ホテルニューグランド」の出身者である故・内海安雄氏は、ホテルの製菓長を歴任し、現代ホテルベーカリーの創始者と称えられた。その功績を顕彰すべく、門下生らが1979年に「内海会」を発足。新しい洋菓子技術・技能の研鑚と、それを担う若い菓子職人の育成および業界全体の技術向上を目指し、現在も講習会や技術コンクールを行い、製菓の国際コンクールに日本代表を送り出すなど、活発な活動をしている。
大谷氏率いる「エスワイル」にも、情熱を持った若き技術者達が集った。1936年生まれで、18歳の時に「エスワイル」に入社した加藤信氏は、ここで本格的なフランス菓子を学び、ヨーロッパでの修業を経て1970年に「帝国ホテル」の初代製菓長に就任。その後は製菓学校の校長を長年務めるなど、若手職人の育成にも貢献してきた。ワイル氏の功績と、「エスワイル」での大谷長吉氏との思い出については、加藤信氏が2024年1月に発刊した著書『GRAND PATISSIER Ⅱ(パティスリー概説)』の中でも詳しく語られている。
他にも、「成城アルプス」(東京都・成城学園前)創業者の故・太田恵久氏、「レピドール」(東京都・田園調布)社長の大島陽二氏、「リリエンベルグ」(神奈川県・新百合ヶ丘)社長の横溝春雄氏など、多くの名だたる洋菓子職人達がこの店から巣立っている。
名店のレシピを継承した看板商品、「モカルーロ」再現の難しさ
今回の「ホテルニューグランド」の新店舗は、そんな名店「エスワイル」2代目の大谷龍一氏から初代のレシピの提供を受け、名称を受け継ぐ形で「S.Weil by HOTEL NEW GRAND」とされた。
サリー・ワイルの横顔をシンボルマークに描いたロゴには、革新に満ちた若き総料理長への尊敬の念と、1927年のホテル開業時より長きに渡り伝統の味を受け継ぐホテルの食への想いが込められている。
「エスワイル」の看板商品の1つだった、コーヒーを使ったバタークリームをカラメルカフェ風味のロール生地で巻いた「ルーローモカ」。このレシピを引き継ぎ、「S.Weil」ブランドのシグネチャーアイテム「モカルーロ」として販売する。ホールサイズのみ、ブランドロゴと揃いのデザインを施したギフトボックス入りでの販売で、賞味期限は当日中である。
製造を担当する「ホテルニューグランド」の調理部 製菓・製パン課課長の柏木康志氏は、都内のホテルのペストリーなどで経験を積んだ人物で、もちろん大谷長吉氏との面識は無い世代だが、「エスワイル」のレシピを元に、大先輩である加藤氏からも技術指導を受け、試行錯誤を重ねてこの菓子を作り上げた。
「加藤先生に試作の様子を見ていただいたら、生地をもっと合わせないと駄目だと言われました。この生地はいわゆる“共立て”なんですが、かなり高温・短時間で焼くのが特徴です。気泡をある程度は殺す(潰す)のですが、その加減が難しく、うまく出来ないとすっと口どけるような生地にならず、口の中にもそもそと残る感じになってしまいます。」と話す柏木氏。
ここで言う「共立て」とは、卵を卵白と卵黄に分けて別々に泡立てる製法ではなく、全卵のまま砂糖と共に泡立て、小麦粉を合わせるやり方だ。ショートケーキのスポンジ生地なども共立て製法だが、このように薄く焼き上げ、これだけ密に巻くとなると、均一な薄さと適度な弾力、割れないしなやかさが必要となる。
また、焼くオーブンの環境も、「エスワイル」時代と全く同じではない。「ホテルニューグランド」のオーブンは、エスワイルと同じ「平窯」と呼ばれるタイプで、上下から火が入るのが特徴だ。だが、オーブンは1台ずつ癖があり、ベテランの職人でも慣れるまで時間がかかると言われるほど繊細である。
「S.Weil by HOTEL NEW GRAND」の「モカルーロ」は、オリジナルと比べて、少しだけ巻きが細い。生地を流す鉄板のサイズが異なるため、それだけでも焼き加減が変わる。オーブンに何枚の鉄板を入れるかによっても影響を受ける。柏木氏曰く、一気に大量の鉄板を入れると温度が不安定となり均一に焼きにくくなるため、今のところ、一度に3枚ずつしか焼けないという。
「S.Weil by HOTEL NEW GRAND」の「モカルーロ」のバタークリームは、「エスワイル」のレシピを受け継いで、無塩バターと有塩バターを合わせてあり、少し塩味が感じられるのが特徴だ。ただ、全くそのままの配合ではなく、有塩バターの量を少し調整するなど、ホテルのお客様や現代の味覚に配慮して、変更している点もあるという。
意外なことに、大谷長吉氏のレシピとして龍一氏から受け継いだものは、コーヒー味のクリームではなく、プレーンのバタークリームだったそうだ。私自身が記憶する「エスワイル」の「ルーローモカ」はコーヒー味のバタークリームであり、創業時からだったのかどうかははっきりしないが、後述する「エスワイル」卒業生のシェフ達の店でも、生地とバタークリームは共にコーヒー味である。
大谷長吉氏が、いつの段階でクリームをコーヒー味にしたのかは未だ謎が残り、今後もゆかりの方々にヒアリングしていきたい課題の1つだ。
今回、「ホテルニューグランド」で再現された「モカルーロ」は、生地とクリームに、「S.Weil」ブランドで新たに作られたオリジナルコーヒーを使用しているのが大きな特徴である。ウォッシュトのエチオピア産をベースにコロンビア産などをブレンドした、フルシティローストのコーヒー豆。店舗ではコーヒーのテイクアウト販売や、豆自体の販売もしている。
実は、一目見た時から、「生地やクリームの色が濃くなっている」と感じたのだが、その後、他店の品と比較した際にも、より明確に感じられた。
「エスワイル」の「ルーローモカ」を受け継ぐ品については、以前に「成城アルプス」でも取材した。また、「レピドール」に1994年に入社し、2003年から2014年にかけてシェフパティシエを務めた石井亮氏が独立開業した「パティスリー ビガロー」(東京都・桜新町)のやり方を教えていただく機会もあった。
では実際に食べ比べて、その違いを検証してみよう。
「ルーローモカ」を継承する3店舗の品を食べ比べると…
今回、「S.Weil by HOTEL NEW GRAND」の「モカルーロ」と、前述した「エスワイル」の「ルーローモカ」を継承する2店舗の品とを、食べ比べしてみた。
1965年創業の「成城アルプス」で、初代以来のロングセラー人気商品「モカロール」は、カットされた1人分サイズと、S・M・Lのホールサイズの販売がある。
2014年に開業した「パティスリー ビガロー」の「ルーロー モカ」は、同じくカットされた1人分サイズと、長さ16cmのホールサイズの販売がある。
同じコーヒー生地とコーヒークリームと言っても、見た目の色だけでもだいぶ違うのがわかるだろう。生地の質感、気泡の入り具合や口どけも異なっていた。
横の長さを測ると、「成城アルプス」と「パティスリー ビガロー」は、ほぼ同じだった。これに対して、「S.Weil by HOTEL NEW GRAND」の「モカルーロ」の横径は約1cm小さく、確かに一回り細く作られていることがわかる。
食べ比べてみると、「S.Weil by HOTEL NEW GRAND」のものは、色が濃いだけではなく、他の2品と比べて、コーヒーの味がやや強く際立つように感じた。
バタークリームの塩味の具合も異なり、「パティスリー ビガロー」のものは、塩味が最も穏やかに感じられる。その違いについて、「パティスリー ビガロー」オーナーの石井亮氏は、「うちは無塩バターのみを使い、別に塩を加えています。」と説明する。これは「レピドール」のやり方を継承するものだそうだ。
この菓子は、焼いた側を中表にして生地を巻くため、表面が乾燥しやすい。「パティスリー ビガロー」でカット品に粉糖を振っているのも「レピドール」を踏襲していて、生地の乾燥防止のためだ。カットは賞味期限当日。ホールサイズには粉糖を振らず、フィルムでぴっちりと包装し、賞味期限2日間としている。
生地を高温・短時間で焼くという点も変わらない。石井氏も、「エスワイル」では「平窯」で焼いていたと聞くが、「レピドール」の頃は、「コンベクションオーブン」という熱風を対流させて焼くタイプのオーブンで焼いていたそうだ。ただし、「レピドール」ではその中でも、「ラックオーブン」と呼ばれる、庫内に入れたラックが回転し熱風が効率よく当たるオーブンを使用していたという。
「レピドール」時代、一度、いつも使っていたオーブンの調子が悪く、この生地を「平窯」で焼いたことがあったそうだが、普段よりも下火が強く入るため、上火の温度を調整する必要があり、かなり難しかったという。当時の現場シェフから、「昔は全部、平窯で焼いていたもんだ!」と叱咤激励されたそうだ。
「この菓子は、職人としてのバロメーターみたいなもので、今でも作る時には緊張します。いい状態の生地をさっと鉄板にのさなくてはならず、もたついて手数が多くなり、何度も生地を触っていると、どんどん状態が悪くなります。センスとかよりも、技術と経験が表れる菓子です。」という石井氏。
構成こそシンプルに見えるが、だからこそ、職人の技が光る品なのだ。
「成城アルプス」の「モカロール」は、生地にもクリームにも、オリジナルブレンドのコーヒー抽出液を使用。初代から受け継ぐ特別な隠し味を配合している。バタークリームには無塩と有塩バターを合わせて使っていて、ほのかな塩味が印象的だ。
ホールサイズは画家・東郷青児氏の作品を原画とした絵柄の箱入りで、フィルムでしっかりと巻いてあり、賞味期限は要冷蔵で5日間と他店と比べて少し長い。長さ約16cmのMサイズと、約23cmのLサイズは、同店のオンラインショップでも注文できる。
カット品には、やはり生地の乾燥防止のための粉糖が振ってあり、賞味期限は当日中だ。現在の社長である2代目の太田秀樹氏からも、この生地は非常に乾燥しやすく、デリケートな扱いが必要だと伺った。基本的な製法は、先代から受け継ぐ創業当時のままだが、生地の泡立て方、混ぜ方など、味は変えずにより美味しく感じられるよう、アップデートを重ねてきたという。
このように、1つの品を巡る継承の歴史を紐解いていくと、私達が「変わらない味」と思い込んできたものも、実は、ごくわずかな変化を重ねてきたことに気づかされる。
代替わりや独立開業、機材の買い替えなどで製造環境が変わることはよくあり、使っていた材料の終売や品質の変化などで変更を迫られることもある。1人の職人が作り続けていても、材料や製法を見直し、目立たないブラッシュアップを重ねるというのは、珍しいことではない。
修業した店や継承した品に敬意を表しつつ、自分ならではの工夫を加えることで、唯一無二の味が生まれていく。
「ホテルニューグランド」で再現された新たな「モカルーロ」もまた、これまで「エスワイル」の菓子を受け継いできた創り手達の菓子と同様、新たな息吹を与えられ、横浜の地で長く愛されていくことを願いたい。