モハメド・アリ死去から2年 宿敵フォアマンが語る「史上最強の男」
モハメド・アリ永眠から、6月3日で2年となる。ボクシング史上、最大にして最高のファイターの軌跡を辿ると共に、宿敵、ジョージ・フォアマン(69)に、ザ・グレイティストを語ってもらった。
ザ・グレイティストの足跡
およそ2年前の2016年6月3日、ボクシング史上最も強い輝きを放った男――“ザ・グレイティスト”モハメド・アリが永眠した。享年74。死因は敗血症ショックだった。
アリは、1942年1月17日、ケンタッキー州ルイヴィルで誕生した。本名はカシアス・マーセラス・クレイ・ジュニア。白人と有色人種が隔離されていた時代のアメリカにおいて、クレイの父は看板書きとして生計を立てていた。
12歳の頃、クレイは父がクリスマスプレゼントとして贈ってくれた自転車を盗まれる。被害届を出しに行った折、対応したのがボクシング経験者である白人の警官だった。その彼に誘われ、グローブを握る。
19歳で出場したローマ五輪(1960年)で金メダルを獲得。クレイは意気揚々と故郷に戻り、白人専用レストランに入る。星条旗を背負って闘った金メダリストになら、肌の色は問題視されないだろうと考えたのだ。
だが、同店の店長はにべもなかった。
「ウチにはニガーに出す食べ物は無い。出て行ってくれ!」
やるせなさと怒りに震えたクレイは店を立ち去り、オハイオ川に金メダルを投げ捨てる。そして、プロに転向し、黒い肌がいかに優れ、美しいものであるかを証明するべく闘った。
チャンピオンになり改名
1964年2月25日、ソニー・リストンを下して世界ヘビー級王座を奪取。デビューから3年半で頂点に駆け上がった。彼が繰り返し述べた「Float Like a Butterfly. Sting Like a Bee(蝶のように舞い、蜂のように刺す)」というファイティングスタイルは、実に華麗だった。
世界チャンピオンとなった直後、彼は「モハメド・アリ」に改名する。
「クレイという名は白人の奴隷所有者から与えられたものだ。我々は、いつまで黒い先祖の名を隠し、白人の姓を名乗らなければならないのか? 俺はイスラム教のなかに、服従された黒人が解放されることを感じた」
自身の名を変えさせたのは、差別体験が大きく影響していた。
ベトナム戦争への徴兵を拒否
その後、アリは世界ヘビー級タイトルを9度防衛。しかし、彼の行く手を阻んだものは、リングで対峙する挑戦者ではなく、アメリカ国家であった。
自身をニガーと呼ばなかったベトナム人を尊重し、同戦争への徴兵を拒否したアリは1970年にタイトルを剥奪され、3年7ヶ月のブランクを余儀なくされる。が、ベトナム戦争は不毛だったことが最高裁で認められ、リングに復帰。合計3度、世界ヘビー級王座に就いた。
引退後もボクサー時代の高揚感が忘れられず2度のカムバックを試みたが、いずれも老いを見せただけに終わる。39歳でリングを離れてからはパーキンソン病に苦しみ、手足の振るえが止まらず、呂律も回らなくなった。
そんな状態でありながらも、アメリカ国民に愛され、1996年に催されたアトランタ五輪では、最終聖火ランナーを務めた。
ジョージ・フォアマンが語るモハメド・アリ
アリが亡くなった直後、ライバルだったジョージ・フォアマンは、短いコメントを発しただけだった。が、没後2年になろうとする3月下旬、彼の地元テキサス州ヒューストンで、およそ2時間のロングインタビューに応じてくれた。今、彼は牧師兼ユースセンターのオーナーである。
――あなたはアリの死をどのように知りましたか?
「私はアリの娘、ハナと親しくしているんだ。ハナはアリの病室を頻繁に見舞っていて、私にも連絡をくれていた。亡くなる直前は、毎日のように彼女からアリの病状を聞いた。だから、亡くなったこともハナから聞いたよ。」
――アリが他界した際、どんなお気持ちでしたか?
「自分の一部か無くなったように感じた。でも数日が過ぎ、アリは今でも自分の身体の中に生きている。私の中に彼がいる、と思うようになった。今日、この瞬間も、そう感じながら生きているよ。」
――アリはあなたよりも、7歳上ですね。アリの存在を知ったのはいつでしたか?
「私が16歳の時だった。カシアス・クレイの本名で世界ヘビー級王者となり、ソニー・リストンやフロイド・パターソンと闘っていた頃さ。彼のバックグランドについては、後に記事で読んだりして知ったが、当時はアリをTVで見て『強いボクサー』『頭が抜群にいい男』という印象を持っていた。いつもショーマンシップに満ちていて、ジョークを言い、リングでは素晴らしく速い足の動きを見せていたね。とても憧れていたし、尊敬していた。」
徴兵を拒否したアリの言動について
アリが3度目の防衛戦に向け、トレーニングキャンプを張っていた1966年初春、ルイヴィル徴兵委員会から「徴兵猶予の1-Yから、アメリカ合衆国軍即時入隊可能の1-Aに引き上げる」という内容の通知が送られた。だが、アリは言った。
「I ain’t got no quarrel with those Viet Cons.」
(俺にベトナム人を殺す理由は無い)
当時アリは、生まれ故郷の隣人たちが、白人たちからいかなる扱いを受けているかを語った。
「多くの黒人の若者が、白人からチェーンで殴られていた。瀕死の重傷を負った者もいた」
「南部のどの地域でもそうだったが、ルイヴィルのホテル、レストラン、水道、映画館の大半は黒人に閉ざされており、隔離されていた」
「俺の真のリングは、アメリカの黒人の自由を奪い取る為のものだ」
アリは自らを貫き、リングを降りたのである。
――反米のスポークスマンとして、ベトナム戦争への徴兵を拒否したアリについては、どう感じましたか?
「私は第36代合衆国大統領、リンドン・ジョンソンによる貧民救済策の一環として設けられた職業部隊へ行くことで人生を切り拓いた。中学さえまともに通わなかった私に教養を与えてくれ、ボクシングと出会わせてくれたんだ。“切り拓いた”というよりも、アメリカ合衆国がチャンスを与えてくれ、私の人生を照らしてくれた。職業部隊には退役軍人がたくさん勤務していた。学業を教えてくれる先生も、ボクシングのコーチも愛国者ばかりだった。
だからアメリカ合衆国への忠誠心を叩き込まれたし、私自身、アメリカ合衆国には感謝の気持ちでいっぱいだよ。当時も今もね。地元ヒューストンで犯罪に手を染めていた少年に、人生やり直す機会を与えてくれたんだ。そのうえ、19歳でオリンピックの金メダリストになることができた。私に愛国心が強いのは、当然のことさ。だから、当時の私には、反アメリカを唱え、徴兵を拒否したアリの行為がよく理解できなかった。」
――その後、理解したのですか?
「揺るぎない精神、信仰、ローマ五輪で獲得した金メダルをオハイオ川に捨てなければならなかったいきさつなど、当初はアリについての理解が不十分だったが後に新聞等で記事を読んだりして彼の気持ちを知ったよ。私とは立ち位置が違ったが、彼は己の信念を貫いたんだね。そうこうしているうちに、アリと戦うことになった。」
キンシャサでのアリvs.フォアマン戦
1967年3月の試合を最後にタイトルを剥奪されたアリは、1970年にカムバック。翌年、当時の世界ヘビー級王者、ジョー・フレージャーに挑むも左フックでダウンを奪われての判定負け。トップ選手だったケン・ノートンにも敗北を喫した。
ジョージ・フォアマンは、アリのキャリアに初めて土を付けたフレージャーが保持していた世界ヘビー級タイトルに挑み、王者を6度キャンバスに這わせ、2ラウンドで仕留めた。更に、2度目の防衛戦ではノートンも第2ラウンドで粉砕した。そのフォアマンの3人目の挑戦者となったのが、アリであった。
40戦全勝37KOのフォアマン(25歳)と、46戦44勝(31KO)2敗のアリ(32歳)とのファイトは、ザイール(現コンゴ共和国)がホストカントリーに名乗りをあげ、全世界に衛星中継された。関係者もファンも、ほとんどがフォアマンの勝利を信じて疑わなかった。
フォアマンは直近の8試合で、全ての対戦相手を2ラウンド以内に沈めていた。一方のアリは、デビュー以来コンビを組むトレーナーが「失った3年7ヶ月のブランクこそ、アリが最も伸びる時期だった」と話したように、既にピークを過ぎたと見られていた。
しかしアリはアフリカの地でザイール国民から熱烈な歓迎を受ける。
「アフリカには自分のルーツがある。住民全員が兄弟だ。我々は必ず勝つ!」
アリに“我々”と呼ばれたザイール国民は、自然とアリのファンとなった。
フォアマンは、それまでのファイトと同様に重いパンチを振るい続けたが、アリはクリーンヒットだけは喰らわず、若きチャンプを消耗させていった。そして第8ラウンド残り15秒。疲れの見えたフォアマンにアリが右のトリプルを放つ。次の刹那、身体を入れ替えながらダブルのワンツーをヒット。王者は半回転しながらキャンバスに崩れ落ちた。
――あの試合を振り返ってください。敗因は何だったと感じていますか?
「アリと対峙した1974年の10月30日の一戦は、プレッシャーに負けたとか、コンディションが悪かったとか、そんなことが理由ではない。私は、世界ヘビー級タイトルに挑戦した一戦で、ジョー・フレージャーをKOしていただろう。アリはそのフレージャーに負けていた。アリとフレージャーとの試合は会場で見た。2人目の挑戦者であるケン・ノートンも私が彼の顎を折ってのKO勝ちだった。正直に言うが、フレージャー、ノートン戦は2試合とも私にとってEasyだった。その2人に負けたアリは衰えている。私がアリに負けることはあり得ない、そう確信して3度目の防衛戦を迎えた。
2ラウンド以内、長引いたとしても3ラウンドには仕留められるだろうと考えていた。でも、アリはそれまでの対戦者とはまったく違った。5ラウンドになって、私は疲れを感じた。息遣いが荒くなったことが自分でも分かった。
リングで『俺のパンチをこれだけ浴びているのに、何故、彼は倒れないのだ?』と思いながら、私は疲労を蓄積させていった。まさしく、それがアリの描いた作戦だったんだ。そして、ご存知のように第8ラウンドにノックアウト負けさ……。
あの日のアリにあって私に無かったものは、経験だった。すなわちキャリアの差が明暗を分けたんだね。」
――アリ戦から何を学びましたか?
「経験とゲームプランの重要性だね。アリ戦の前まで、私にとって勝利=KO勝ちだった。相手を倒して勝つことこそが重要だと信じていたんだ。でも、アリからは、たとえ判定でも勝利することが大事だ、と教えられた。
今だからこんな風に話せるが、アリ戦での敗北は私を粉々に打ち砕いたよ。負けるということが信じられなかったし、ザイールを去る時は、本当に打ちのめされていた。自分は生きる価値のない人間だ。人生の敗者なんだ、とさえ思った。あれほど哀しかった経験はボクサー生活で無かったな。
時間をかけて自分を修復し、もう一度アリに挑めば今度はきっと勝てると考えるようになるまでには、時間を要した。力任せにKOを狙うことよりも、ゲームプランを立てて、勝利を上げることを意識するようになったね。」
アリから拳で教わったこと
アリによって身命をも破壊されたフォアマンは、苦しみながら一つの答えに辿り着く。「自分と闘った時、アリは2つの敗北を経験していた。黒星から這い上がったからこそ、アリはより大きくなったのだ。とはいえ、再戦すればきっと勝てる」。
どんな状況に置かれても、アリは自己を信じ、描いたゴールまで走り抜く強さを持っていた。黒い肌も反米を唱えた行為も、ある層にはネガティブに映ったが、信条を曲げることは決してなかった。
アリはフォアマンに拳で「人の歩み」をレッスンしたのである。やがて、フォアマンも同じように負けを糧として立ち上がる。
――人間・モハメド・アリから教えられたことは?
「『他者から愛されることが、いかに大事か』ということを学んだ。彼は人が好きだった。アリ以上に他者から愛された人間っていないんじゃないかな。本当にGreatだよ。
モハメド・アリと書いてアメリカ合衆国という国家をイメージするくらいの存在だったよね。中国、日本、アフリカ、ヨーロッパ…誰もがアリを知っている。アメリカの象徴でもあった。」
(つづく)
■モハメド・アリ
1942年1月17日、ケンタッキー州ルイビルに生まれる。本名、カシアス・マーセラス・クレイ・ジュニア。19歳で出場したローマ五輪(1960年)でライトヘビー級の金メダリストとなる。同年プロに転向し、20連勝を重ねて世界ヘビー級チャンピオンに。9度の防衛に成功するも、ベトナム戦争への徴兵を拒否し、タイトルを剥奪される。最高裁で無罪を勝ち得た後、カムバック。1974年10月30日、ジョージ・フォアマンを下して世界ヘビー級王座に返り咲く。その後、10人の挑戦者を退けるが、1978年2月15日、レオン・スピンクスに判定負けして王座転落。7カ月後のリターンマッチに勝利し、3度世界ヘビー級チャンピオンとなった。2016年6月3日没。享年74。
■ジョージ・フォアマン
1949年1月10日、テキサス州マーシャル生まれ。生後間もなく同州のヒューストンに移り住む。1968年に開催されたメキシコ五輪のヘビー級で金メダルを獲得。翌年、プロデビューし、38勝無敗で世界ヘビー級チャンピオンとなる。が、3度目の防衛戦でモハメド・アリに敗れ、王座を失う。アリ戦後、ジミー・ヤングに2敗目を喫して引退するも、38歳にしてカムバック。そして、45歳でマイケル・モーラーを下してWBA/IBF世界ヘビー級タイトルを奪還。1997年11月22日、48歳316日でリングに上り、シャノン・ブリックスを判定で下したが、不可解な判定で黒星を喫する。その試合を最後にリングを去った。現在もヒューストン在住。
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