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【河内長野市】日本遺産クイズラリーに登場した「くろやおう」とは何者。烏帽子形八幡神社に石碑があります

奥河内から情報発信奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

完走するとモックルコインがもらえるという理由があるとはいえ、昨年末から1月にかけて開催された河内長野市日本遺産クイズラリーは、大好評でしたね。

私も参加させていただき、改めて河内長野には本当に多くの貴重な文化財があるんだと再認識しました。しかし、その時にどうしても引っかかるスポットがありました。それは烏帽子形八幡神社でのクイズの答えです。

烏帽子形八幡神社のスタンプスポットは、高野街道に面した入口の休憩所でした。

クイズラリーの参加した時には休憩所にこのような掲示板があり、このスポットの回答に関する情報が記載されていました。

それがこちらです。答えとしては星に隠れたところの文字を集めるもので、それを試した結果「くろやおう」というキーワードが出てきました。

この「くろやおう」は確かに答えだったのですが、そもそも「くろやおう」とは何なんだろうと、とても気になりました。

河内長野は高向玄理(たかむこのくろまろ)や八条院など、それなりの人が関わていた場所ですから、てっきり「黒屋王」とか「玄矢王」とか、そういう皇族や豪族由来の人物が頭に浮かんでしまい、その視点で調べましたが、それではまったく出てきません。

すると烏帽子形八幡神社の氏子さんが「くろやおう」の石碑がある場所を教えてくれました。漢字では「黒谷翁」と書くようで、神社の入口に石碑があったわけです。

ところで、この黒谷翁とはそもそも何者で、なにゆえに烏帽子形八幡神社の入口に石碑があるのでしょうか?

気になったので調べた見たところ、黒谷翁の本名は黒谷左六郎重寛という人で、幕末から明治時代にかけて活躍した人です。

全国に名を知られていた剣の達人だったそうで、明治時代に烏帽子形八幡神社の社掌(しゃしょう)になった人です。この社掌とは旧制の神職の職名で、府県社・郷社で社司の下に属し、村社・無格社では祭祀 (さいし) をつかさどり、庶務を管理したとあります。

烏帽子形八幡神社の旧社格は村社なので、重寛は実際に祭祀を行っていたと考えられます。

碑文の説明がありました。右側にある碑文そのものは漢文のような書体ですが、左側に解読した文章がありましたので、それを引用します。

[碑文解読]
黒谷翁の名は、重寛 性源は黒谷氏。中津藩士で、幼少から武術剣法を習い、諸国歴遊して剣の道を磨き、其の技は首君に及び帰藩後は、藩の子弟に教えていたが、明治維新以后、剣法を学ぶものが減り、其の志が得られなくなり、明治二十一年烏帽子形祠官(社掌)として三日市村に住居を構え、自らその志を郷人に教え、郷人は其の風格・人柄にひかれ、多数が集まり教えを受けた。明治三十七年九月享年六十有九歳で村の西、上田墓地に葬られた。武士の風格がありながら、その飾らない人柄に郷人達はその教えと徳を慕っていまだ不功の学びここにあり、書をしたためる。
(落ち着いた剣、今も変わらず 枝はつつしみ深く 晩年になっても信念は変わらず、古き身構えはなお盛ん ここ錦渓谷の場に建つ 一片の石碑は 千年高く仰ぐ)

ようするに大分県の中津藩の藩士である剣豪が河内長野に来て、烏帽子形八幡神社の神職を務めながら、郷土の人たちに剣術を教えた人とのこと。では、なぜこの人が九州からはるばる河内長野に来たのでしょうか?

いろいろ調べると、大阪府立大学の文献で、幕末から明治にかけて大阪に来た剣豪を調査した資料を見つけました。それによると黒谷左六郎重寛(1836-1904)は、剣術三流派を極めたのちに、神に仕えた人物として紹介されています。

重寛は天保7年に生まれた中津藩士で、最初は外他(とだ)流一刀流・坪坂何右衛門から免許をもらい、さらに久留米藩の浅山一伝流の免許も取得します。

しかし、重寛はそれに飽き足らなかったのか、江戸で桃井春蔵直正に入門します。これは当時江戸にある三大道場(千葉、斎藤、桃井)のひとつで「位の桃井」と称される鏡心明智流の流派なのだそうです。(そのほかは「技の千葉」「力の斎藤」)

桃井春蔵のもとで剣術を習ううちに幕末を迎えると、幕臣であった桃井は徳川将軍護衛のために上方に向かいます。重寛も師とともに上方に向かいますが、常に師である桃井の元を離れなかったと伝わります。

その中のエピソードのひとつとして、戊辰戦争、鳥羽伏見の戦いの勃発直前に桃井が開戦に反対して南河内に逃亡。その際に体調を崩したそうですが、重寛はその桃井の介抱をしたという記録が残っています。

烏帽子形八幡神社
烏帽子形八幡神社

明治維新を迎えると、重寛は大阪安堂寺町で道場を開いたとの記録があります。その時には150人もの門弟がいたそうですが、重寛はいったん中津藩に呼び戻されました。

その後1883(明治16)年に、重寛は師匠、桃井の勧めで、当時の堺県で剣術の教授を務めた後、1887(明治20)年に河内国三日市村大字喜多(現:河内長野市喜多町)に移住し、烏帽子形八幡神社に社掌として赴任します。

そこでも道場を開きますが、驚いたことに教えを受けた人が最大500人も居たそうです。

蟹井神社
蟹井神社

さらに重寛の教えを受けた高弟が、豪農剣士団として京都武徳会に何度も出場したそうです。そのメンバーには次のような人たちがいました。

  • 天見の田中太蔵(豪農、高齢者表彰)
  • 天見の田中蔵太(蟹井神社神官、村会議員)
  • 三日市の八木新右衛門(豪農)
  • 瀧畑の辻ノ上為太郎(豪農)
  • 長野の西條平三(酒造業)
西條合資会社:天野酒
西條合資会社:天野酒

当時の天見村の村会議員や蟹井神社の神職の方も弟子でいらっしゃるそうですが、特に気になったのは、最後に書いた長野の西條さんです。職業の酒造業からして今の天野酒さんの当時の当主なのかなと想像できますね。

重寛は1904(明治37)年に69歳で死去し、上田墓地に葬られます。そして弟子たちにより、翌年黒谷翁として烏帽子形八幡神社の鳥居横に顕彰碑が建立されます。

ということで「くろやおう」こと黒谷左六郎重寛の足跡を紹介しました。クイズラリーで登場させるほどの著名人でありながら、まだまだそれほど知られていない偉人。

彼のことを調べて感じたことは、こんな素晴らしい剣豪が河内長野で神職をして、多くの人に剣術を教えていたという事実です。河内長野の歴史の奥深さを改めて知る機会となりました。

黒谷翁の石碑(烏帽子形八幡神社入口)
住所:大阪府河内長野市喜多町305
アクセス:南海・近鉄河内長野駅から徒歩15分

奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

河内長野市の別名「奥河内」は、周囲を山に囲まれ3種類の日本遺産に登録されるほど、歴史文化的スポットがたくさんある地域です。それに加えて、都心である大阪市中心部に乗り換えなしで行ける複数の大手私鉄(南海・近鉄)と直結していることから、新興住宅団地が多数造成されており、地元にはおしゃれな名店や評判の良い店なども数多くあります。そして隣接する富田林市もまた、歴史文化が色濃く残る地域。また南河内地区の中核都市として、行政系施設が集まっています。これを機会に、奥河内(一部南河内含む)地域に住んでいる人たちのお役に立つ情報を提供していければと考えています。どうぞよろしくお願いします。

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