【河内長野市】奥河内くろまろの郷のモデル「高向玄理」は何をした?飛鳥時代に活躍した国際人の素顔に迫る
2014(平成26)年に高向(たこう)の大坂花の文化園の西北側に出来た、道の駅奥河内くろまろの郷。観光や休憩施設だけでなく、JA直営の「あすかてくるで」で食材を買うために、連日、地元市民も訪れるスポットとして大人気です。
ところで、くろまろの郷の「くろまろ」とはいったい何者でしょうか。これは高向にいた高向玄理(たかむこのくろまろ)からきており、彼をイメージしたトップ画像のような像や河内長野市の公認キャラクター「くろまろ君」が存在します。
では、この高向玄理は、いったい何をした人なのでしょうか?ここで改めておさらいしようと思います。
玄理の一族である高向史氏(たかむこのふひとうじ)は、応神天皇の頃に日本に来た、七姓漢人(しちしょうかんじん)と呼ばれる渡来人で、中国・魏の文帝(ぎのぶんてい)の末裔とのこと。
ちなみに文帝は曹丕(そう ひ)という名前で、魏の建国者。三国志の主要人物・曹操(そうそう)の子でした。つまり玄理は、曹操の子孫でもあるわけです。
高向史氏は、豪族の一族として河内国錦部郡高向(現:河内長野市高向)を拠点としました。
玄理の父、古足(ふるたり)は飛鳥時代の学者です。そのこともあり、玄理が18歳のとき、聖徳太子が計画した小野妹子を大使とした遣隋使(けんずいし)のメンバーに抜擢されました。
608年に隋に向かったメンバーは、玄理のほか、南淵請安(みなぶちのしょうあん)、倭漢 福因(やまとのあやのふくいん)、学僧の旻(みん)など8名の留学生。当時の先端技術を学ぶために、大陸に向かいました。
大陸では30年以上滞在し、その間に隋が滅んで唐が建国するというタイミングに居合わせています。玄理は640年に留学を終え、朝鮮半島の新羅を経由し帰国。聖徳太子が制定した冠位十二階(かんいじゅうにかい)で、上から二番目の位、小徳(しょうとく)の地位を受けます。
645年に起こった大化の改新では、新体制では、旻(みん)とともに国博士(くにはかせ)に任命されました。これは、大陸の留学経験を生かした新制度を立案推進するための臨時の職で、政治顧問という立場として国政全般のアドバイザーを務めました。
大化の改新の翌年、遣新羅使(けんしらぎし)として朝鮮半島の新羅にも渡り、外交交渉を行っています。
さらに中国の制度を見習った「八省百官(はっしょうひゃっかん)」という新しい政治制度を定めました。
つまり、それまでの機内の豪族(古代大和を中心とした近畿地域の有力者)を中心とした政治体制から、律令国家としての大陸の制度に移行する為の重要な役目を、高向玄理は果たしたことになります。
次に、654年に玄理は遣唐使の押使(おうし)として大陸に渡ります。この役職は大使よりさらに高い地位で、遣唐使の最高位。
中国の長安に到着し、唐の3代皇帝・高宗(こうそう)に謁見(えっけん)したものの、その後病に倒れ、祖国に戻ることなく、この年長安で亡くなりました。
ただ、当時の国際人として若き日に30年間過ごした大陸なので、玄理にとっては懐かしさがあったのではと。想像でしかありませんが、実は第二の故郷という意識だったのかもしれませんね。