関ヶ原合戦で西軍が敗北したのは、島津氏の率いる軍勢があまりに少なかったからだった
大河ドラマ「どうする家康」では、関ヶ原合戦の模様が描かれ、東軍が西軍に勝利して戦いが終わった。西軍の敗因はさまざまであるが、中でも主力として期待した島津氏は大誤算だった。この点について、詳しく検討してみよう。
慶長5年(1600)7月17日、三成ら西軍の面々は徳川家康を討つべく挙兵した。その際、諸国の大名に味方になるよう要請した。あくまで名目は「豊臣秀頼への奉公」である。
西軍の主力は120万石を領していた毛利氏に加え、宇喜多氏、島津氏、小早川氏などの錚々たる大名が名を連ねていた。しかし、宇喜多氏は家中騒動で弱体しており、軍勢の多くは牢人で賄われたという。
状況が厳しかったのは、島津氏も同じである。島津氏は西軍から大いに期待されていたが、慶長4年(1599)に勃発した庄内の乱で家中は混乱しており、加えて島津義弘も兄・義久との関係が良好ではなかった。
義弘が西軍に与した理由は、三成の出陣要請を拒むことができなかったからである。上方にいた義弘の軍勢は、わずか200余に過ぎず、これでは戦力にならなかった。
義弘は国元の義久に何度も繰り返し援軍を要請した結果、その軍勢は1000人弱にまで増えたという。それでも数が十分とはいえないので、重ねて増員を要請したが、思う通りにはいかなかった。
その後、軍勢は400人ほど増えたものの、それは半ば義勇軍のような兵で、正式に派遣されたものではなかったという。これでは、大いに期待外れである。
なぜ兄の義久は援軍を派遣しなかったのか。一説によると、義久はのちのことを考え、東西両軍のいずれに与したか、姿勢を鮮明にしたくなかったからだったといわれている。
ともかく、勇猛で知られる島津勢とはいえ、2000にも満たぬ数では、とうてい西軍の主戦力としては期待できなかったことになる。西軍の首脳は、頭を抱えたに違いない。
同年8月20日と、義弘、豊久(家久の子)が2000余の兵を率いて、美濃垂井(岐阜県垂井町)に着陣した。その2日後には、三成からの要請もあり、義弘らは墨俣(岐阜県大垣市)へ移動した。
しかし、先述のとおり島津氏の率いた軍勢は、知行高と比較してあまりに少なく、このことが最終的に災いをもたらした。島津氏は西軍の主力と目されていたが、まったくの期待外れだったのだ。
島津義弘と豊久の軍勢は、三成の部隊から1町半ほど離れた小池村に着陣した。小西行長の軍勢は、島津氏の部隊の右に陣取った。宇喜多秀家の軍勢は、天満山に陣を構えたという。
大谷吉継はもともと山中にいたが、藤川の前に移動した。その周囲には、戸田重政、脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、越前今庄(福井県南越前町)の赤座直保が陣を置いたのである。
結局、義弘の軍勢は開戦しても満足に戦うことなく、最終的に薩摩を目指して逃亡した。義弘の軍勢は東軍の追撃をかわしつつ、這う這うの体で薩摩にたどり着いたが、多くが討たれたという。
おまけに義久は、義弘が西軍に与したことを与り知らぬことだと述べた。これでは、責任の押し付け合いで、西軍の戦力にならなかったわけである。
主要参考文献
渡邊大門『関ヶ原合戦全史 1582-1615』(草思社、2021年)