大松尚逸、引退!―稀代の勝負師が福井で静かにユニフォームを脱いだ
9月9日。大松尚逸選手の引退が、BCリーグ・福井ミラクルエレファンツから発表された。
プロ初本塁打は逆転の満塁本塁打だった。以降、逆転弾、満塁弾、代打弾、サヨナラ弾など数々のアーチを架け、勝負を決する一打を放ってきた。
大量点差を逆転したり、相手エースを得意としたり、目の前での胴上げを阻止したりで、得た愛称は数知れず。「満塁男」「巨人キラー」…挙句には「世界遺産」とまで称されるようになった。
そんな男が今季限りで現役を退く。
最後に選んだのはNPBでもなく、社会人でもなく、海外でもなく、日本の独立リーグだった。
福井ミラクルエレファンツ―。ここで、ひっそり静かにユニフォームを脱いだ。
■左膝半月板の断裂
直接の引き金となったのは左膝半月板の断裂だった。8月17日の新潟アルビレックスBC戦。六回の第3打席で右飛を打って一塁へ駆け出したとき、左膝から嫌な音がした。そこから普通に歩行することすら困難になった。
「全力疾走でもないのにね。そんなんでやるようじゃ無理だなと思った」。後日、そう自嘲ぎみにつぶやいていた。
今年の春先から左膝の状態はよくなかった。当時は半月板の損傷だった。それでも注射を打つなどして、なんとか“だましだまし”プレーを続けた。新しく入団したチームのためにも、自分自身のためにも精一杯の働きをしたかった。4番に座り、若い選手たちにこれまで培ってきたものを見せ続けたかった。
しかし体は正直だ。そんなことをすれば他の箇所に負担がくるのは当然だ。今度は左ふくらはぎが悲鳴を上げた。そうなってはどうしようもない。戦線離脱を余儀なくされた。
左ふくらはぎの状態が癒え、ようやくゲームに復帰できたのが後期に入った6月22日。ただ半月板は完治していないままだった。
そんな中での致命傷だが「毎日一生懸命プレーしている以上は、いつどこでケガがあるかわかんないんで、それはしかたないこと」と、常に覚悟と隣り合わせでプレーしてきたことを明かす。
そして、とうとう左膝にメスを入れた。
■“出なければならない”と自身に課した2つのわけ
実はこの試合、大松選手本人にとって“出なければならない”わけがあった。
チームは前日、遠く長野まで遠征して試合をしていた。ナイターだったので、福井に帰り着いたころには日付も変わっていた。大松選手はしかし、相手が左投手で出番はないからと遠征メンバーから外されていたのだ。
「みんな疲れて帰ってきての翌日の試合で、行かなかったオレが出ないわけにいかない」。
これだけのベテランでありながら、誰よりも気遣いを見せる。
もうひとつ。相手の先発がドラフト候補の長谷川凌太投手で、数人のスカウトが見にくることを知っていた。そこで、自身が長谷川投手の力量を測る目安になってやろうとも考えたのだ。
長谷川投手が「大松尚逸」をどう抑えるのか。それはスカウトにとっても評価の指標になるし、長谷川投手にとっても貴重な機会になる。
対戦結果は一飛、右前打、右飛と3打数1安打だった。体も万全ではなく、試合勘も十分とは言い難い状態の大松選手である。「初見のオレに、こんな前に飛ばされていいのか」と、バットで奮起を促した。
長谷川投手も「NPBの人ってこういう反応するのか…」と新たな発見を得たとともに、「ちょっと間違えてたら越されてた」という怖さも味わったという。
チーム関係なく同じ“野球人”として、高みを目指す若者に何か伝えられたら…。「大松尚逸」とは、そういう男なのである。
しかし結局、その右飛が現役最後の打席になってしまった。
■田中雅彦監督からの招聘
「福井に来て、よかった。ほんとに」―。嘘偽りない心からの言葉だった。
千葉ロッテマリーンズで12年、東京ヤクルトスワローズで2年。まだまだできると己の力を信じていた。NPBほか、さまざまな道を模索したが、大松選手の前になかなか新しいユニフォームは用意されなかった。
そんな折、声をかけたのがBCリーグ・福井ミラクルエレファンツの田中雅彦監督だった。マリーンズ時代の1つ上の先輩。しょっちゅう食事に行くなど、公私ともに仲がよかった。
田中監督は大松選手のことをもっとも理解し、そして誰よりも高く評価していた。マリーンズで生え抜きの主砲として、スワローズでは勝負強い代打の切り札としてセ・パ両リーグで活躍した実績やその技術は言うまでもないが、それ以上に「野球人・大松尚逸」「人間・大松尚逸」に期待を寄せた。
「野球に取り組む姿勢、考え方、打席の中での整理の仕方…。プロ野球で4番を打ってる選手があれだけ練習するのも見てきた。引き出しもいっぱい持っている。若い選手たちにプラスにしかならないと思った。
僕は1つ上だけど尊敬している、大松のことは。めちゃくちゃ人間性もいいし、プライベートでも仲よかった。だから知っている、大松っていう人間を。誰よりも努力していたのを知っている。いいときばかりじゃなくて、苦しんだ時期もけっこうあった。だから、苦しんでる選手のこともわかってくれると思う」。
それらすべてを含めて、大松選手がチームにもたらしてくれる効果は絶大であろうと考えた。
■田中監督と過ごした福井での日々
それに応えて福井にやってきた大松選手。ゲームで見せる姿だけでなく、熱心に若手を指導した。選手たちにとってもこんな貴重な機会はない。教わったことがすぐにできなくても、できるようにやり続けた。
結果は即、目に見えて顕れるものではないが、徐々に選手たちの意識は変わり、ほんの少し形になってきた。そのことは大松選手をおおいに喜ばせた。
しかし選手としての自身は、ずっと歯がゆさを抱えたまま過ごしてきた。なかなか思うように体が動かせない。やりたいことをやろうとすると体が悲鳴を上げる。本来なら走ってキレを出し、筋力をつけ、バランスを整えたいところが、それも叶わない。痛みや不具合と戦いながら、できることを模索し続けた。
「迷惑しかかけてない。やりにくかったと思うし、使いにくかったと思う」。
自分自身への歯がゆさとともに、呼んでくれた田中監督への申し訳なさもずっと抱いていた。
「だからこそ、それ以外の部分でできることを」と、選手たちには伝えられることを伝え、監督の相談相手にもなった。
「監督自身も迷うこともたくさんあると思う。そういったところの答え合わせというか…」。ほぼ毎晩、一緒にサウナに行き、熱く熱く語り合った。それは3時間にも4時間にも及んだ。
「僕だったらこう思いますよ」「あのケースはこうですね」…。お互いの野球観をぶつけ合い、試合のこと、チームのことについて意見を交わした。
「こんな感じでチームって進むんだなとか、こうやって選手って指導していかないとダメなんだなって、勉強になった」と、田中監督の“監督っぷり”にも驚きの感があるという。
「(選手時代の田中雅彦とは)全然違う。先輩方からも連絡がくるけど、『まぁまぁ監督やってますよ』って(笑)」。盟友のそういう一面に間近で触れられたことも嬉しかった。
■実家での団欒の時間も
そして福井に来たからこその大きな喜びが、ほかにもあった。
週に一度、金沢の病院に治療に通ったが、そのときには必ず実家に寄ってごはんを食べた。「こういうの中学生以来かな、正月とか以外では」。子どものころに帰ったような気分を味わった。
お父さんは試合もたびたび見にきてくれた。「ヤジがすごい(笑)。『大松!いけよ、積極的に!』『なんのボール待っとんや!』とかって(笑)。子どものころから超英才教育やったんで」。スタンドから届くその大きな声が、懐かしく嬉しかった。
福井での最後の試合も、出場はできなかったが家族そろって見にきてくれた。
「石川にいて東京(の試合)じゃ、気軽に試合を見にくることは難しいんで。最後こうやって僕の姿を見てくれたっていうのは、本当によかった。僕にとっても」。
だから、福井球団に対しても感謝の念は尽きない。
■自身の引き出しを惜しみなく伝授
それだけに福井の後輩たちへの思いは熱い。「僕はどっちかっていうと、教えるというよりアドバイス」と、方法や選択肢を提案したのだという。
到達するためのやり方はひとつではない。「これじゃなきゃダメってことは絶対ない。引き出しは多ければ多いほどいい」。自身の持てる引き出しは、いくらでも披露した。
ただ、その伝え方には苦労したようだ。NPBではすぐに伝わった感覚が、なかなか理解されない。“感覚”という曖昧なものの共有がなされないのだ。しかしそれを「僕の言葉の足らなさ」と自省する。
そこで、「3や4や5の話をしてもしゃあないな。1や2の基本的なことからちゃんと伝えていこう。そういうことも教わってないのかもしれない」とスタンスを変えた。
すると「意外とそっちのほうがギュッと入ってくるし、けっこう変わる」と気づいた。
さらに「3、4、5っていうのは圧倒的に技術が必要。そうすると練習量も実戦経験も必要」と伝え、レベルの高いチームや投手と当たったときにいかに肌で感じるかがたいせつだと説く。
「自分と何が違うのか」「なぜボールが前に飛ばないのか」…など、自分でそれがわかるようになると、変化が表に顕れるのだという。
これまでとレベルの違う世界に身を置いたことで、「勉強になったなって、つくづく思う」と、大松選手自身も得るものが多かった。
しかし理解できない相手に言葉で伝えることや相手の感覚を自分が理解することなどの難しさを痛感し、「自分でプレーしたほうが楽やなと思った。それで見せたほうが早い」と、思いどおりに見せられない歯がゆさもまた、味わった。
それでも練習のたいせつさ、ゲームにおいて考えることの重要性など、大松選手だから伝えられたことは数えきれない。
「できないことのほうが多いのが野球。だから練習するわけで、じゃあその練習内容がどうかどういう意識をもって練習しているか。意識を持って練習していたら人に伝わる」。
「試合ごと、打席ごと、打席の中の1球ごと…すべてつながっている。それを考えないと、ただ漠然と打席に立ってたのでは打てない。考えて入るから凡退しても得るものがあるし次につながる。同じ結果でも、考える考えないで全然違う」。
さまざまな金言をエレファンツナインに授けた。
それをナインが体現したのが大松選手がユニフォームを着た最後の日、8月25日の「大松尚逸選手特別イベント『OHMATSU DAY』のゲームだった。(参照⇒「OHMATSU DAY」)
「イメージが出だしていた。どこにヒットを打ちたいとか、どういう打球を打って凡打になりたいのかっていう意識が伝わってくるから、いい野球になっていた。今年の初めとはワケが違った」と、これが必ず上のステージで役に立つんだと大松選手もうなずいた。
そしてその成長した姿に自身も感じるものがあった。「口うるさく言ってきた甲斐があったのかな」。そう言ってほほえむ。
自分でプレーすること以外の喜びを知った。
■「尚逸」という名に宿る力は、今後も野球界で役立てる
これまでの野球人生は自身の誇りだ。とにかく勝負強かった。ここぞという場面は必ず「大松尚逸」で、そこで結果を出してファンを喜ばせてきた。
「なぜかね、そういうところに回ってきちゃう(笑)。僕の中では、そういう星の下に生まれちゃったのかっていうね、いいも悪いも。
だからそれはいい意味の自信として、『まぁなんとかなる』とか『俺ならなんとか』って、常にそういう思いで打席にも立ってるし、その思いがあったからこそ、ここまで続けてこられたと思う」。
マリーンズでアキレス腱を断裂したときは、不屈の闘志で立ち上がった。
「やっぱロッテを見返したいとか、純粋に家族や周りの人、ファンの人にもう一回打席に立ってるところを見せて終わりたいっていう思いだけやった」。
その思いが奮い立たせてくれ、みごとスワローズで復活した。
「本来ならロッテでスパッと終わるのがスマートやったかもわかんないけど、自分がもがいたことによって次、ヤクルトでプレーできて、すごいいい経験して、いろんな人と出会って、野球観も人脈も広がった」。
そしてさらに、これまで経験したことがない世界を知りたいと、飛び込んだのがBCリーグだった。
「もっといろんな人と出会えて、自分の野球観もまた変わったし、すごくいい1年やった。このリーグのことも知れて、誰かがトライしようとするときに話すこともできる」。
ここでもまた、新たな引き出しを増やすことができた。
これまでの自身の選択に何ひとつ後悔はなく、むしろ「僕らしい」と、すべてよかったと心から思える。
これだけの選手でありながら華々しい引退試合もセレモニーも会見も行わずに現役に別れを告げる。
福井球団としては功労者であることには違いなく、なんらかの場を用意しようとしたが、それも本人は固辞した。
非常に淋しいが、しかし野球ファンにとって大松選手が活躍した記憶が薄れることは決してない。
そしてまた、大松選手の野球への情熱の火が消えることもないだろう。
まずはゆっくり羽を休めたあと、いつかまたどこかで、この熱い男がユニフォーム姿で羽ばたくのを見ることができるに違いない。
稀代の勝負師、「大松尚逸」―。
母方のおばあちゃんが授けてくれたというこの名前に宿る力は、今後も野球界で光り輝く。
(撮影はすべて筆者)