戦前からあった、日本人の南国に対する憧れ
南洋幻想とは、日本人が「南の島」や「南洋」に対して憧れを抱く感情のことを指します。
この南に対する憧れは明治以降強まっていきました。
この記事では戦前の日本人の南洋幻想について紹介していきます。
ある種のオリエンタリズムが入り混じった南洋幻想
南洋の地、まだ文明の光に染まらぬ「遅れた」人々というイメージが、当時の日本人の心にいかに深く根付いていたか、それは一種の憧憬でもあったように思われます。
古の未開の世界、原始の芸術、そこには日本の文明の喧騒から解放され、素朴で力強い美しさがあると信じられていました。
そして、1919年に南洋群島が日本の委任統治領となったことで、南の島々はさらに日本人にとって身近な存在へと変わっていったのです。
その証しとして、土方久功というひとりの画家が現れました。
彼は、1929年、29歳にしてパラオに渡ります。
土方家は名家で、彼の出自は上流階級でしたが、なぜか「寒いところが嫌いだ」という一言で南洋行きを決意したのです。
彼の心の中では、南洋の古代文化に引かれた何かがあったのでしょうか?
あるいは、国粋主義の高まりに嫌気が差したのでしょうか。
とにもかくにも、彼はパラオにたどり着き、南洋庁の嘱託となり現地の児童に彫刻を教え始めます。
南洋でのその名は今も残り、パラオでは「ヒジカタ先生」と呼ばれるほどです。
そこに登場するのが、杉浦佐助という愛知の宮大工の青年です。
彼は1917年、まだヴェルサイユ条約が結ばれる前の南洋群島に渡った初期の移民の一人でした。
彼の語学力を買った土方は、彼を通訳として迎え入れ、共に生活を始めます。
やがて、二人はパラオの日本人が多いコロールを避け、さらに辺境のヤップ島サタワル島という孤島に移住し、7年間共に暮らしました。土方の指導の下、杉浦は彫刻家としての腕を磨き、やがて東京でその作品を発表するや、高村光太郎から「南洋の原始的審美と幻想に満ちた巨弾」と称賛されることとなります。
しかし、土方がコロールに戻る一方、杉浦はマリアナ群島へと渡り、最終的にはテニアン島へと移り住みました。
そこに、沖縄からの版画家、儀間比呂志も加わります。
二人はともに彫刻に励みますが、戦争の足音が次第に迫り、儀間は1943年、召集を受けて沖縄に帰国します。
杉浦はそのままテニアン島で暮らしますが、1944年、アメリカ軍が島に上陸し、激戦の末、彼は日本兵に投降を呼びかける際に撃たれて命を落としました。
彼の作品はほとんど残されていないのが、何とも悔しいところです。
このように、南洋の地で芸術家たちは生の根源を求め、文明の枠を超えた表現を見出そうとしていました。
彼らの目に映ったミクロネシアの人々は、あくまで力強く、素朴な美を象徴する存在だったのでしょう。
しかし、その背後には、「文明に汚されない楽園」という幻想、そして「日本より遅れた未開の地」という偏見が色濃く残されていたのです。
こうしたイメージは、大衆文化の中にも浸透していきました。
例えば、島田啓三の『冒険ダン吉』はその一例であり、1933年から『少年倶楽部』で連載されると、南洋の蛮族を征服し王となるダン吉の物語は子供たちに大人気となりました。
日本人が南国の地に対して漠然と持っている、「暖かくてロマンチックなユートピア」というイメージはこういった背景から生まれているのです。
参考 青柳まち子(2015)「日本が夢見た南の島々」私立大学戦略的研究基盤形成支援事業」21世紀海域学の創成 研究報告書1 p121-p128