【その後の「鎌倉殿の13人」】山本耕史さん演じる三浦義村は、どんな最期を迎えたのか
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は最終回を迎えた。山本耕史さん演じる三浦義村は重要な人物であるが、その最期はどのようなものだったのか、詳しく掘り下げてみよう。
ドラマのみならず、鎌倉時代初期の政治史を語るうえで、三浦義村を無視することはできない。義村の生年は仁安(1168)頃が有力視されているので、北条義時よりも5歳若い。義村の活躍が顕著になるのは、建久10年(1199)における源頼朝の死後だろう。
頼朝の没後、幕府内では激しい権力闘争が繰り広げられた。建久10年(1199)の梶原景時の変では、景時の弾劾状を大江広元に提出するなど、景時討伐の主導的な役割を果たした。元久2年(1205)の畠山重忠の乱、同年の牧氏の変においても、大いに貢献した。
とはいえ、義村は常に不穏な動きを見せていたのも事実である。建暦3年(1213)の和田合戦では、戦いの直前まで和田義盛に与する態度を見せながらも、最終的には幕府方に寝返った。
建保7年(1219)、源実朝が公暁に殺害されたが、公暁を唆したのは義村だったといわれている。公暁は本懐を遂げ、義村を頼ろうとしたが、逆に義村は公暁を討ち果たした。ただし、現在では義村が黒幕ではなく、公暁の単独犯説が有利となっている。
承久3年(1221)の承久の乱では幕府に与して、戦いを勝利に導いた。一方、貞応3年(1224)の義時没後に勃発した伊賀氏の変では、再び黒幕として取り沙汰されたほどである。しかし、北条泰時が執権となると、評定衆の宿老となり、ナンバー2の座に就いた。
義村が亡くなったのは、延応元年(1239)12月5日である。『吾妻鏡』によれば、義村の死因は「頓死、大中風」だったという。「頓死」とは急死、「大中風」とは脳卒中発作の後で現われる半身不随のことである。義村は、脳卒中で急死したのだろう。
一方、『平戸記』には、『吾妻鏡』と同じく「頓死」としながらも、死因は後鳥羽上皇の祟りだったと記す。むろん、これは迷信であろう。義村の最期は呆気なかったようだが、幕府における権力闘争を潜り抜け、最後まで幕政の中枢にあったのはたしかだ。