「一期一会」―東北楽天ゴールデンイーグルス・藤田一也選手が大切にしている、人との縁
■4年目の京都での自主トレ
「一期一会」―自身が開設しているブログのタイトルでもある座右の銘。東北楽天ゴールデンイーグルスの藤田一也選手にとって、人との出会いや縁こそが、最も大切にしてきたことであり、自らをここまで成長させてくれた根幹である。
吐く息が白い、底冷えのする1月の京都。雪が舞う日もある。温暖な地を自主トレ先に選ぶ選手が多い中、藤田選手は京都市内の球場で自主トレを始めて4年目となる。今年も後輩の藤江均投手、福山博之投手、岡島豪郎選手を引き連れ、終日、体をいじめ抜いている。
以前は横浜(現DeNA)時代の先輩・石井琢朗選手(現広島コーチ)や村田修一選手(現巨人)に付いて自主トレを行っていたが、ある時「お前も先輩に付いていくより、そろそろ後輩を引っ張って自分でやれ」と村田選手から言われた。そこで選んだのが京都市内の球場だ。近畿大学時代の戦場であったこと、また同じく横浜時代の波留敏夫コーチ(現中日コーチ)の誘いで毎年12月に参加している学童野球教室も同球場で開催していることから、自主トレで使いたいと申し出た。
すると波留コーチの地元の友人や、その繋がりで様々な人々が手伝ってくれるようになった。「これだけ色んな人が手伝いに来てくれて、やりやすい環境にしてくれている」と、そのバックアップに頭を下げる。
■前監督・星野仙一氏との出会い
2005年、横浜ベイスターズに入団し、レギュラー定着も近いと思われた矢先の2012年、大きな転機に襲われた。トレード。しかもシーズン途中に、リーグも違う楽天への移籍だった。「本当に悔しかった。悔しさしかなかった。よく恩返しっていうけど、絶対に見返してやろうと思った」。
ここで出会ったのが星野仙一前監督だ。星野監督はこう言った。「お前は打てんでも、しっかり守っとけ!」つまり、打撃には少々目を瞑ってでも使い続けてやる―ということだ。「あの言葉で楽になりましたねぇ」。
だからといって、その言葉にただ甘えていた訳ではない。それまで自身の弱点は左投手だと認識していた。横浜時代の成績を見ると、対左投手の打率は悪くない。しかし打席数は、右投手に比べると極端に少ない。「左投手だと代えられるというのは、悪いイメージを持たれているということ。“ノー感じ”の三振とかもあったし」。「対左」は藤田選手にとって最重要課題だった。
そこで克服する為に「待ち方」を変えた。これまでの「まっすぐ待ちで変化球に対応」から、配球を読んで「張る」ようにした。また、状況によって打つ方向も考えるようになった。こうした思い切ったことができるようになったのも、星野監督の言葉があったから。「打てなかったら交代させられるかもしれない」と1打席だけで勝負するのと、「この打席がダメでも次がある」と打席と打席の繋がりも計算してバッターボックスに立てるのとでは、明らかに気持ちの余裕が違う。その余裕が打撃を変えてくれた。
また、アウトの内容も良くなった。同じアウトでも、攻撃を途切れさせるただのアウトではなく、流れを呼び込めるようなチームの為の納得できるアウトも多くなった。
■2番打者のやり甲斐に気づかせてくれた外国人選手たち
打順は主に「繋ぎ」や「自己犠牲」と称される2番を任される。「調子悪い時は8番か9番にしてほしいなぁなんて時もあるけど、2番という打順がおいしいと思えるようになった」と明かす藤田選手。“おいしい”という表現には何が含まれているのか。ここにも一つの出会いがあった。
一昨年の日本一メンバーだったアンドリュー・ジョーンズ選手とケーシー・マギー選手。この2人の外国人選手は、ことあるごとに藤田選手の働きを讃えてくれたそうだ。「お前のバントがあったからオレがタイムリーを打てたんだよ」「お前が塁に出てくれたお陰で打席が回ってきたよ」など、自分だけの手柄にせず、必ずそこに至った“経緯”である藤田選手に直接、賛辞の言葉を贈ってくれたという。「そんなこと、今まで日本人には言われたりしなかったから、すごく嬉しかったし、やり甲斐を感じるようになった」。ちなみに、言語は「ボクにもわかるくらいの英語(笑)」だそうだ。
■触発された金色のグラブ
守備に関してはアマチュア時代から定評があった。プロ入りに当たり、「守備の名手」と言われる選手のいるチームに入りたいと思っていた。念願叶って横浜に入団し、石井選手と出会った。
1年目のことだ。石井選手の自宅に招かれ、目を奪われたのがゴールデングラブ賞の副賞のグラブだった。石井選手が使用するグラブの型どおりに作られた、金色に輝くそのグラブを目の当たりにした時、「カッコイイ〜」と感激すると同時に「これは獲らないと!」と心に誓った。
それから8年、とうとう手中に収めた。「まさか獲れるとは思ってなかった。日本一になったからじゃないかな」と謙遜したが、さらに翌年も2年連続で受賞した。「一度は獲りたいと思っていたし、一度獲ったら2年連続で、その次はレギュラーの間はずっと獲り続けたい」と、その意欲は留まるところを知らない。そして、その為の努力は怠らない。
技術練習はもちろんだが、藤田選手の極意はポジショニングにある。「ボク、守備範囲は決して広くないんです」。そう自覚するからこそ、ポジショニングにこだわる。
試合前のミーティングで必ずするのが、打者がその日の相手投手から打っている“ヒット集”のVTRを見ること。見るべきところはピッチャー。その日、どうやって攻略するかを各自、イメージする。
しかし藤田選手の視点は違う。もちろんピッチャーも見るが、ここでバッターの打球も頭に叩き込むのだ。この選手はこの状況で、このカウントで、この球種を、このコースをどう打つのか。どういう打球が、どの方向に飛ぶのか。全てを頭の中にファイリングする。
こうした積み重ねによってゴールデングラブ賞を獲るまでの選手になったが、そもそもは石井選手との出会いが、藤田選手をここまでの選手に押し上げたとも言える。
■様々な出会い
振り返ってみれば、最初の出会いが藤田選手を形成し、支え続けているのかもしれない。「小学校時代の監督が全てかな。野球が楽しいってこと、こんなにも楽しいものがあるってことを教えてくれた。野球を一度も嫌にならず、ずっと好きでやらせてくれた。それと、人としての挨拶やコミュニケーションを初めに教えてくれた。ボクが人見知りしなくなったのは監督のお陰」。藤田選手のベースはここにある。
守備の礎を築いてくれたのは、高校時代の監督だ。「守備は楽しかった」と振り返る。1年の時、グラブの代わりにスリッパや板でボールを捕るという基本練習があった。「これが、めちゃくちゃ痛い。それに壁当てとか、この基本練習が上手くないと本隊のシートノックに入れてくれなかった」。その痛さは想像に難くない。しかし痛いからこそ優しく捕るように体を使う。それがハンドリングの上達に繋がったそうだ。
「今でもその練習をしますよ」と、板のようにカチカチの硬い新品のグラブで、また素手でも、毎日ひとり黙々と壁当てを繰り返している。
近畿大学に進んだのも縁だった。高校時代、それほど注目を集めていた訳ではなかったが、たまたまコーチに来てくれていた人が近大と繋がりがあり、「体は小さいけど、守備の上手い選手がいる」と推してくれた。その後、大学で頭角を表し、プロへの道が開けたのだ。
プロとなり、一流選手の仲間入りをした今、大切にしている縁の一つに小学生の野球教室がある。「グラブを立てようとせず、フライパンでチャーハンを作るときのように」など藤田選手の教え方は例えが面白く、非常にわかりやすい。足の位置やグラブの出し方、また何故そうすることがいいのか。子供たちに伝わるよう言葉も工夫している。
「小学生に教えることが、ボクにとっても勉強になる。中学生以上になると、ちょっと言えばすぐ理解できる。でも小学生には丁寧に教えないと。そうすることで自分が調子悪い時も基本に返れる」。教えながらも、自ら楽しんでいるのが伺える。
■大きな恩返しを・・・
4年目となった京都での自主トレも24日に打ち上げる。「暖かいところだとすぐに体ができるから、準備が疎かになってしまう。オーバーワークにもなりやすい。こういう寒いところなら丁寧にしっかりできる」と話すように、朝はまずお風呂でしっかり体を温めてから球場に入る。アップにも1時間以上時間をかけ、ゆっくり体を起こしてから動き始める。
かつて温暖な地で自主トレを行っていた頃は体の仕上がりが早過ぎ、ピークがオープン戦の時期になってしまっていた。京都に場所を移してからは、キャンプで更に作り込み、ちょうど開幕の頃に合わせられるようになった。「ジンクス的なことでも、良かったら続けたい方なんで。大きなケガもないし」。
この京都の地での縁を大切にし、キャンプ、そしてシーズンへと向かう。「ボクが1年頑張って、また来年いい形で会えるように。結果を残すこと、話題にしてもらえることがお礼になるから」。
個人の目標達成はもちろんのこと、選手会長としてチームを引っ張り、日本一を奪還することが、出会った人々へのこれ以上ない恩返しになる。