阪神一筋47年。虎投手陣を支えたブルペン捕手、そして「虎風荘」の副寮長も務めた西口裕治さんが定年退職
阪神タイガース一筋47年。西口裕治さんが退任した。御年65歳。定年退職である。
1978年に高田商業高校から「ドラフト外」で入団し、選手としては1980年に引退したが、その後、長年にわたってブルペン捕手としてチームを支えてきた。そして、最終ポジションは若虎の独身寮である虎風荘の副寮長だった。
そんな西口さんの、タテジマ47年間の数ある思い出を振り返ってもらった。
■「甲子園球場の中に入ってみたかった」
今はない「ドラフト外」というシステム。当時、ドラフト会議で指名できる選手の人数が制限されていたため、テストを実施するなどして選手を獲得するということが行われていた。
タイガースでも、1軍で活躍した吉竹春樹氏(78年)や亀山勉氏(87年)、星野修氏(88年)らはドラフト外入団である。
「トライアウトと一緒やん。高校3年のときに甲子園に受けに来たんよ。ベースランニングとか、シート(打撃)みたいな感じでテスト生同士が投げて打っての対戦とか。キャッチャーやから、セカンドスローも最後にやったね。それで、なんか知らんけどさ、とんとん拍子に『残れ』『残れ』『残れ』言うて…。何十人くらい受けてたかな。100人はいなかったと思う」。
ダッシュや遠投などでどんどん脱落していき、残った選手が実戦に進んでいくのだが、西口さんはとうとう最終まで残り、合格した。そしてドラフト外として入団したのだ。
奈良県出身だから、試合の中継はテレビで見ていて「タイガースは好きやったよ」という。だが、テストを受けたのはタイガースに入りたかったからではなく、「甲子園球場の中に入ってみたかった(笑)。1度でいいから」という理由だった。それで受かったのだから、自分でも驚いた。
■初めて受けたプロの投手は江本孟紀氏
入団すると「自分がここにいること自体が信じられなかった」と、スター選手ばかりの周りに圧倒された。キャンプインの甲子園で、最初にボールを受けたのが江本孟紀投手だった。
「ピッチャーが調整するときに、若い順番に駆り出されるわけ。先輩(捕手)たちは決まった人のところに行くけど、新人でわからんから待っとったら、目の前におったんが江本さんやった(笑)。それが最初」。
立ち投げから始まり、「あったまったから座れ」と命じられた。
「捕れるわけないわな(笑)。いや、もう、見たことない球やもん。高校生のレベルしか知らんやん。それがいきなりプロのエース級。そんなん捕れるわけないやん(笑)。ミットに当てるのが精いっぱい…というより、自分を守るのに精いっぱい。体に当たらんようにな(笑)」。
高校卒業前の18歳はプロのレベルを肌で感じ、衝撃を受けた。
■野球の練習よりランニング
当時はファームの球場がなく、ウエスタン・リーグの試合は甲子園球場で行っていた。だから親子ゲームか、もしくは1軍が遠征中にしかできなかったという。
「試合のないときは武庫川沿いにランニングに行ってたね。野球の練習なんか、ほとんどしてない。阪神の武庫川駅からどこまで走ったやろなぁ。『今日は2号線までや』とか言うてな、走って帰ってくる」。
空いているときは甲子園球場内の室内を使うか、内野手は浜甲子園の少年野球が使用するグラウンドでノックを受けるなどしたが、「ランニングばっかりしていたのを覚えているね」と、とにかく走っていた。
虎風荘は当時、甲子園球場の隣にあった。そのころの余暇の楽しみといえば寮の中での卓球か、目の前の阪神パーク内にあるビリヤードやボーリングに興じることだった。さらに阪神パークの先に行けば、ゴルフの打ちっぱなしがあった。
■1軍の手伝いからブルペン捕手に
選手としての一番の思い出は、ウエスタン・リーグで中日ドラゴンズのドラフト1位左腕・都裕次郎投手から放った初ヒットだ。だが、試合よりも1軍の“手伝い”に行かされたことのほうが、数多く思い出されるという。
「『手伝いって何ですか』って訊いたら『ブルペンの手伝いや』って言われて、1年目からずっと行っとったんや。ほかの選手も球拾いとかな」。
それが続き、気づけば1軍の遠征にもついていくようになった。当然、ファームの試合には出られない。そしてとうとう「クビやね、結局」と、専属のブルペン捕手になれと言われた。
すぐには承諾しかねた。「『ちょっと考えます』言うて、家族に相談したんや」と持ち帰ったが、「単純な考えで、ユニフォームが着られるんやったら、もうちょい着よかなと。職業が違うだけで、同じユニフォームを着られるんやから、2年くらいやろかな」と考え直した。
「それが、そのままな…(笑)」。
2年経っても辞めようとは思わなかった。「だんだんとな、おもしろくなってきたからね」。年数を重ねるごとに、ブルペン捕手としての醍醐味を味わえるようになっていったのだ。
■各球団のエースピッチャーの球を捕る
まず、エース級のピッチャーのボールを受けることができる。
「江本さんに古沢(憲司)さん、上田二朗さん、安仁屋(宗八)さん…あとは中継ぎがいろいろ。先発は4~5人おったらいい時代やったからな。今みたいに6人も7人もおらんから」。
そうそうたる投手陣の球を受け続けた。
さらには他球団の投手の球も受ける機会に恵まれた。オールスタゲームや日米野球の手伝いに推薦されるようになったのだ。
「いろんなピッチャー(の球)を捕れたからね。ジャイアンツやと西本(聖)さんに江川(卓)さんとかね。エース級しかおらんやん、オールスターに出るピッチャーいうたらね。各球団のエースピッチャーを捕っていたら、やっぱりおもしろいやん。あと、外国人もな」。
それぞれ特徴があり、それを今、思い出しては書き留めて記録しているという。
■優勝の喜び
1985年には優勝、日本一も経験できた。「ビールかけとか、あんなどんちゃん騒ぎをしたんは初めてやからさ。それと優勝旅行でしょ」と、今でも鮮明に思いだされる。それくらい楽しかった。
当時、21年ぶりの優勝で盛り上がった。「それからはもう、優勝を目指してずっとやっていたけどね」。あの歓喜を再び味わいたいとの思いでやっていたという。
「優勝争いはけっこうあったんよ。“疑惑のホームラン”の1992年とかね(笑)」。
9月11日、甲子園での対ヤクルトスワローズの首位攻防戦だった。同点の九回裏、2死一塁から八木裕選手が放った左翼への飛球はホームランと判定され、サヨナラ勝ちに沸いた。
「俺ら、勝ったと思ってもうロッカーに上がっとって、風呂に入っているやつもいて。そしたらマネージャーが『まだ帰ったらあかんぞ』『着替えるな』って言いにきたんや」。
結局、相手の野村克也監督の抗議で判定はエンタイトル2ベースに覆り、2死二、三塁で再開。そのまま延長十五回までお互いに0行進で、引き分けに終わった。
「終わったら午前様よ」と、6時間26分の激闘をなつかしそうに振り返る。
■印象深い「高卒三羽ガラス」
次にタイガースが優勝したのは18年後の2003年だったが、そのときはもう、西口さんは1軍にいなかった。2002年からファームの担当になったのだ。
「コーチではないんやけど、『育成担当』という肩書をつけられたよ。まぁ、コーチ扱いはしてもらったよね」。
若い選手ばかりだ。それまでの1軍投手とは「雲泥の差やったね」とはいうものの、キラリと光る原石が投げる球を受けるのは心躍った。
高校を卒業したばかりの投手の中で、とくに際立っていた3人を挙げた。
「井川(慶)、藤川(球児)、藤浪(晋太郎)。井川はやっぱりチェンジアップと真っすぐやね。トルネードじゃないんやけど、ちょっと傾いて投げるのが特徴やったね。最初はコントロールがねぇ…。でも、ボールが低めに来だしてからは勝ちだしたね」。
先日の鳴尾浜球場の最終戦でファイナルピッチセレモニーの登板をした井川投手だが、バッテリーを組んだのが西口さんだった。
「井川がなつかしいなぁと思ってね。体型は変わったけど、投げ方は変わらんね。いまだに河川敷で練習しているって言うとった。まだ現役は引退していないって、それが口癖やから(笑)。それなりのボールを投げとったよ」。
また、「藤川はやっぱり体やね。細かったもん。だんだん体ができてきたら、腕が振れだしてよくなってきたね。ボールはよかったけど、体がついてこなかったからね。腕の振りがいいんやけども、下がついてこないから(力が)伝わってなかったよね」と入団当時を思い起こし、監督に就任したことに感慨深げな様子だ。
「藤浪は最初に見たとき、『デカッ』って(笑)。頭ひとつデカいやん。日米野球でランディ・ジョンソンも捕ったことあるんよ。それ以来にデカいと思ったね(笑)」。
西口さんの中で思い出に残る「高卒三羽ガラス」だ。
■鳴尾浜の思い出の一番は「暑い!」
2009年、副寮長の職に就いた。しかし最初のころは春季キャンプにも参加し、ブルペンで受けてもいた。シーズン中もグラウンドに出て、練習の手伝いもしていた。「キャンプは2018年が最後かな」と言い、1981年から着けてきた背番号93に別れを告げ、以降は仕事内容もシフトチェンジしていった。
鳴尾浜球場での思い出と尋ねると、まず出てきたのが「まぁ、暑い」という一言だ。
「夏、残留練習のときに一日中、暑い中で球拾いした思い出やな(笑)。本隊が遠征に行ってて、当時のピッチングコーチと一緒に練習中の球拾いをしたなぁ。あれが大変やった。あのころはスタッフも少なかったから」。
大変だったとは言いながら、楽しそうに相好を崩す。
今は副寮長として、若虎の成長を願っている。
「やっぱり寮から1軍に通っている選手は気になるね。頑張れよって、1軍で活躍してほしいって見ているね。ちょっと前やったらテル(佐藤輝明)とか中野(拓夢)とか小幡(竜平)とかいっぱいおったね。今なら(前川)右京かな」。
テレビの前で、手に汗握って応援している。
■狙うはバッティングキャッチャー?
あと3年で勤続50年だったが、「キリのいいところまで勤めたかったっていうのはあるね」と、ちょっぴり淋しそうだ。
「体力があるから、まだまだやりたいわね。ボール捕れと言われたら、まだ捕れる気持ちはあるもんね」。
次の道は未定だという。「野球しかしたことないからなぁ。まだ楽隠居はできへんからな。働き口を探さな」という西口さんが、本気とも冗談ともつかない口調で「あれ、やりたいんや」と明かすのが「バッティングキャッチャー」だ。1軍の打撃練習のときの捕手だが、「あれ、バイトでやりたいんや」と笑う。
ブルペン捕手時代は、打撃練習中にケージ内で打撃投手の球を受けるのも仕事の一つだった。岡田彰布前監督はよく「調子が悪くなったら、バッティングキャッチャーに聞け」と言っていたそうだ。
「バッターの後ろで毎日見ていたら、そのバッターの“穴”とか、もうすぐ調子悪くなるなとか、ようわかるんよ。あ、開きだしたな、バットが下がっているな、肩が下がっているな、って。相手キャッチャーは試合でそれを見て配球するんやから」。
下り坂に向かう兆候が一目瞭然で、それは相手捕手にもバレバレなのだとうなずく。当時も「少しでもスランプが短くなるように」と、気づいたことは選手に伝えていたという。貴重な助言だ。
やはり、どこまでも野球が好きでタイガースが好きなのだ。退職してもなお、何か勝利に貢献できることはないかと考えている。
シーズンに入り打撃練習が始まったとき、もしかすると西口さんがケージの中で座っていたりして…?
(撮影はすべて筆者)