横山典弘がかけた毒のきいた祝福の言葉と、それを聞いた2度引退した男の心境とは?
双子騎手として華々しくデビューしたが……
本日7月1日、新しいスタートを切る男がいる。
JRA騎手として、2度の引退を経験した彼の名は柴田未崎。45歳になったばかりだ。
親の勧めで乗馬を始め、1996年、美浦・高木嘉夫厩舎から騎手デビューを果たした。同期には3人の女性騎手や天才・福永洋一の息子として話題になった福永祐一らがいた。
「彼等が話題になっているのは分かっていたけど、意識はしませんでした」
そう思えたのには、理由があった。兄の柴田大知も同時にデビュー。JRA初の双子騎手として、自らも話題になっていたのだ。
しかし、そんな話題性とは裏腹に厳しい現実が待っていた。思うように勝てず、乗り数が減った。乗れなければ余計に勝てなくなる。負のスパイラルから抜け出そうと、障害騎乗にも挑戦した。そんな2011年、美浦トレセンの調整ルームで地震に見舞われた。
「今まで経験した事のない揺れで、驚きました」
東日本大震災だった。今の暮らしが明日も保障されるとは限らない。そんな気持ちに追われるように、この月を、騎手を引退した。
「怪我をする事も多く『もういいかな……』と思ってしまいました」
しかし、斉藤誠厩舎で調教助手になった彼に思わぬ試練が待っていた。
「調教助手は調教助手で求められるレベルが高く、ついていくのが大変でした」
治療や飼い葉など、覚えなくてはいけない事が多過ぎて、毎日がアッという間に過ぎていった。
「騎手をそれなりに長くやったつもりだったけど、知らない事だらけだったと気付きました」
それでも1度は調教師試験にトライしたが、粉砕されたと続ける。
兄の姿に触発されて騎手復帰
そんな13年、5月5日の事だった。斉藤厩舎の馬の臨場で東京競馬場へ行った。すると……。
「メインのNHKマイルCを兄の大知が勝つ場面に偶然、立ち会いました」
その瞬間、羨ましく思うと同時に「自分が騎手としてまだ何かやり残した事があるという気持ちが強くなった」。
「そんな時、規定が変わって騎手試験を再受験出来る事になりました。引退後に結婚した妻に相談すると『やってみなよ』と後押ししてくれました」
受験勉強に励んだが、調教助手としての仕事はいつも通りこなさなくてはいけない。当然、家事全般は夫人任せ。そのため次のように考えたという。
「1度だけ受けて、ダメならもう諦めようと決心しました」
そんな気持ちで受験すると、思わぬ追い風を感じた。
「前年に調教師試験を受けるために勉強したのが活きて、試験は出来た感触を得ました」
もっとも再合格という前例がなかったため、受かるかどうかは分からなかった。そんな柴田に、難関突破の報が届き、14年、騎手復帰を果たした。
「受かったら受かったで『やっていけるかな?』と不安になりました」
不安を払拭してくれたのが、大知であり、妻だった。
「妻と大知が喜んでくれたので、やるしかない!!という気持ちになれました」
チャンスを求めて関西へ
こうして復帰したが、完全な新人騎手ではなかったため、減量の特典もなく、またしても厳しい現実が立ちはだかった。故・岡田繁幸氏の助言もあって、14年からは栗東をベースにすると、翌15年には正式に関西移籍。
「少しでもチャンスを求めての移籍でした。関西で唯一の伝手は、田所秀孝厩舎(解散)に高木厩舎時代の先輩がいた事でした。そんな縁もあって田所先生が沢山乗せてくれました」
田所の弟子が18年に騎手デビューをし、騎乗機会が減ると、別の男が助けてくれた。
「飯田雄三調教師が乗せてくれるようになりました。とはいえ、全体的な乗り数は少なくて、収入も安定しないので『所属にさせてもらえないですか?』と聞くと、二つ返事で了承してくださいました」
こうして18年12月から飯田厩舎所属となった。しかし、それが飛躍的な打開策とはならなかった。19、20年と1勝のみに終わると、21年はついに未勝利のまま1年を終えた。
「所属で甘えていてはダメだと、今年の年頭から再びフリーになりました」
しかし、勝てない日々は続いた。3月を終えて騎乗数は4回のみ。決して多額ではない調教騎乗手当で日々をしのいだ。
誕生日までに、と決意した事
そんな苦しい中で嬉しい出来事があった。誰もが手を焼くような難しい馬を任され、ほぼ毎日のように調教騎乗。スプリングS(GⅡ)を勝ち、皐月賞(GⅠ)やダービー(GⅠ)に駒を進めたビーアストニッシドだった。
「スプリングSを勝った際、騎乗した岩田(康誠)さんが、勝利騎手インタビューで『毎日、一所懸命に調教をつけてくれている未崎君のお陰』と言ってくれました。嬉しかったです」
更にビーアストニッシドを管理する飯田からも嬉しい言葉をもらった。
「『苦しければいつでも戻っておいで』と言っていただけました」
柴田から懇願して1度は所属しながら、自らの意思で厩舎を出たにもかかわらず、再び手を差し伸べてくれたのだ。
「何かを変えないと、とフリーになったけどどうにもなりませんでした。結局、飯田先生の言葉に甘えさせてもらいました」
4月から再度、所属。その際、1つの決意をしていた。
「これ以上、迷惑をかけられない気持ちがあったし、自分としてもやれるだけの事はやったと思えたので、誕生日まではもうひと踏ん張りするけど、それまでに状況が変わらなければ、今度こそ騎手を引退しようと決めました」
誕生日は6月18日。そんな思いを知ってか知らでか、5月にある一報が耳に入った。
「大橋勇樹調教師が7月から働ける調教助手を探していると、騎手クラブを通じて連絡が入りました」
絶好のタイミングだった。大橋とはこれまで全く絡みがなかったが、自分で良ければ、と頭を下げた。同時に、6月一杯での引退が、決まった。
「最終週は2頭騎乗したけど、1頭は大橋先生で、もう1頭は飯田先生の馬でした」
ラストラン後の横山の言葉
6月26日、阪神競馬12レース。ハクサンライラックが最後の騎乗となった。
「宝塚記念の後で、パドックも場内も沢山のファンがいる中で迎える事が出来ました」
返し馬を終えると、松山弘平とC・ルメールが「最後ですね」「ガンバッテ」と声をかけてくれた。4コーナーを絶好の手応えで回る時には「大きな喚声が聞こえた」(本人)。
「一瞬、勝てるか?!と思ったけど、最後は4着でした。良い馬に乗せてくださった飯田先生や関係者に改めて感謝すると共に『無事に終わって良かった……』と感じました。
レース後にはサプライズが待っていた。騎手仲間が駆けつけて、胴上げをしてくれたのだ。
「同期の祐一(福永)と和田(竜二)、それに武豊さんとノリさん(横山典弘)が花束を下さいました」
皆が「お疲れ様」という中、横山だけが彼らしい独特の言い回しで無事の引退を祝ってくれた。
「ノリさんからは『3度目はないぞ』と言われました」
横山はメインの宝塚記念(GⅠ)でこの日の騎乗を終えていたにもかかわらず、最終レースが終わるまで待っていてくれた。一見、毒のある言葉にも愛を感じた柴田は苦笑した。そして、横山のその言葉こそが自らの想いだと改めて感じた。
「前回と違い、今回はやり切った気持ちで、一点の悔いもありません。助けてくださった皆様や、今までとくにつながりもなかったのに最終週に騎乗馬を用意してくださった大橋先生に恩返しする意味でも、これからは調教助手として、頑張っていきます!!」
騎手を2度辞めた男は、今日、新たなスタートを切る。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)