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ドウデュースでジャパンCを制した武豊騎手が、世界の舞台で経験してきた事とは?

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
ジャパンCを制したドウデュースと武豊騎手

スローの中で見せた技術

 「いやぁ〜、きつかったです」

 11月24日、東京競馬場で行われた第44回ジャパンC(GⅠ)をドウデュース(牡5歳、栗東・友道康夫厩舎)で制した武豊。レース後、ひと通りのイベントを終え、顔を合わせると開口一番、そう言い、さらに続けた。

 「前半何秒ですか? 62秒台?! やっぱりそうですか。遅くて抑えるのがキツかったですから……」

 逃げ馬不在でどの馬も折り合いに苦労していた。“走る”能力のある馬ほど行きたがってしまう流れで、当然ドウデュースも掛かり気味になった。行かせてしまえば天皇賞で見せたような末脚が不発になる可能性があるし、無理矢理抑え込み過ぎてもスタミナを消耗する。親が子供に対するように、喧嘩をしないで教え込む。文字で書く事は容易だが、これを、手綱を通して実践するのは簡単な事ではない。これまでの経験から培われたスキルや本人が元から持っている素質がモノをいうのだろう。

 3コーナー手前あたりから4コーナーにかけては前や横にいた人気薄の各馬を早目にかわして進出していった。本人も「それが良かった」と語るように、このあたりの勝負勘がまた流石である。レースへ行ってしまえばその場その場に応じたジョッキーのアドリブが結果にもたらす影響は大きく、たとえ鞍下が力に優っていても、鞍上の判断1つで掴めるはずの大輪の華を掴み損ねる事も多々あるのが競馬である。

 ペースが遅ければ上がり勝負になるのは火を見るよりも明らか。それは一般的には前が有利な展開といえる。しかし、武豊は後方にいても慌てない。ドウデュースにどのくらいの脚を発揮させられるかは手の内に入っているし、それなら前とどのくらいの差の位置にいれば差し切れるかは頭の中に入っている。案の定、前で残った2着馬と、ドウデュースとの差が僅かにクビではあったが、武豊は言う。

 「着差以上に強かったといえる内容でしょう」

武豊騎手に操られ、着差以上に強い内容でジャパンCを制したドウデュース
武豊騎手に操られ、着差以上に強い内容でジャパンCを制したドウデュース

2000年、アメリカでのエピソード

 ジャパンCの終わった夜、当方の元にオリビエ・ペリエ元騎手やジョン・ハモンド元調教師らユタカタケと親交のある外国のホースマンからお祝いの言葉が届いた。

 そこで、先日のブリーダーズCのために太平洋を越え、アメリカ入りした際のエピソードを1つ紹介しよう。

 2000年に長期滞在して以来のデルマー競馬場を訪れたレジェンドは、24年も前の現地でのある出来事に、思いをはせた。

ブリーダーズCのために24年ぶりにデルマー競馬場を訪れた武豊騎手
ブリーダーズCのために24年ぶりにデルマー競馬場を訪れた武豊騎手

 この時のアメリカ遠征は、ゲイリー・スティーブンスらトップジョッキーを担当していたエージェントから声がかかった事に端を発していた。「スティーブンスが怪我で乗れなくなったから、代わりにどうですか?」という話が日本のナンバー1ジョッキーに届いたのだ。

 前年の1999年がデビュー13年目。3年目で全国リーディングとなっていた武豊は、既にその座につく事10回。8年連続首位を独走中で、直近の5年間はそれぞれ134,159、168、169、178勝と、毎年勝利数を伸ばしていた。

 その間、海外でも91年にエルセニョールで制したセネカH(アメリカ、GⅢ)や、スキーパラダイスのムーランドロンシャン賞(フランス、GⅠ)、シーキングザパールのモーリスドギース賞(フランス、GⅠ)等、数々の実績を残し、世界の競馬界にその名を認知されていた。

1999年モーリスドギース賞(GⅠ)を制したシーキングザパール(右端)と武豊騎手
1999年モーリスドギース賞(GⅠ)を制したシーキングザパール(右端)と武豊騎手

 だからこそ持ち上がった話だが、さすがにすぐに決断する事は出来なかった。

 「腰を据えて海外に挑戦したい気持ちはありました。でも、この当時は自分自身絶頂期で、日本で沢山の良い馬を任されていました。長期で海外へ行くとなれば多くの人に迷惑をかけてしまうので、逡巡しました」

 この起動の遅れが、遠征に少なからず影響を与えた。ついに決心をした時、先述のエージェントは既に後釜を見つけていた。

 「西海岸の競馬は出走頭数も少なくて、良いエージェントが付いていないと、乗り馬を探すだけでもなかなか大変でした」

2000年、アメリカに長期滞在した際の武豊騎手
2000年、アメリカに長期滞在した際の武豊騎手

 先述した通り、日本では唯一無二の存在になっていたが、西海岸では毎日続く青空の下、競馬に乗れず自宅で過ごさざるをえない日も多くあった。そんなある日の事だった。レジェンドが述懐する。

 「その日は何とか乗り鞍がありました。それなりに人気に推され、自信を持って乗りました」

 道中は絶好の手応え。「追い出しさえ間違わなければまず勝てる」と思った。

 「最後の直線はクリス・マッキャロン(当時騎手、引退)との一騎討ちになりました。こちらは余力充分だったので、正直『もらった!!』と思ったのですが、意外なほどクリスがしぶとく粘っていました」

 結果、その粘りは想像以上だった。

 「結局、負けてしまいました。『あの手応えで何故負けたのか?!』と、不思議に思って考えたのと同時に、世界のトップジョッキーの素晴らしさを、身を持って痛感させられました」

 日本では向かうところ敵無しという状態だったが「まだまだ勉強しなくてはいけないし、もっともっと経験を積まなければいけないと思いました」と言う。翌01年、更に続く02年のフランス長期滞在等、世界中を飛び回ったのには、そんな理由もあったのだ。

20年サウジアラビアで再会した武豊騎手とC・マッキャロン騎手
20年サウジアラビアで再会した武豊騎手とC・マッキャロン騎手

次なる目標

 怪我で乗れなかった前年のジャパンCの、雪辱を果たしたレジェンドは言う。

 「有馬記念は小回りの中山だし、もっとゴチャつきそうなので、馬群をどう捌くかがポイントになりそうですね……」

 勝利の余韻に浸る間もなく、既に次なる目標へ目を向ける。誰よりも世界を舞台に積んで来た経験がきっとまた活かされる事だろう。

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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