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「辞めるか上がるかしかなかった」 川崎Fの新戦力が這い上がってきた理由

杉山孝フリーランス・ライター/編集者/翻訳家
(写真:西村尚己/アフロスポーツ)

記憶は嘘をつく。

5年前に福島で行なわれたJ3の試合のことで、事細かに覚えているわけではない。だが、福島ユナイテッドのホームにガイナーレ鳥取の一員として乗り込んできたサイドバックの印象度は抜群だった。

中盤中央から右へと展開された、やや強めのパスだったと「記憶する」。タッチライン際に張り出した背番号17は、速く鋭角に入ってきたボールを右足で直接叩き、見事なクロスに変えた。メンバー表を確認すると、東洋大を卒業したばかりのルーキーだった。その後も、もはやサイドバックではなくウィングのように、自分の攻撃力を見せつけていた。

あれから5年、その若者はカテゴリーを隔てる壁を2つ乗り越えて、J1王者に加入した。名前を、馬渡和彰という。

「どこで勝負したいか自分に問いかけたら、ここでした」

川崎フロンターレ加入を選んだ理由を、そう語った。

昨季はサンフレッチェ広島に加入したが、リーグ戦出場は4試合にとどまった。それでも、複数のオファーがあったという。その中から、おそらく一番厳しい道を選択したのだろう。

もともと、険しい道のりだった。J3とJ1の間の距離は、想像以上に遠い。「サッカーを辞めるか、上に上がるかしかなかった」。プロの第一歩を踏み出した当時を、馬渡はそう振り返る。

さらに背中を押すものがあった。「家族もいて守るべきものもあったし、自分の中でたぶん覚悟があったんだと思います。自分一人だったら、もしかしたら逃げていたかもしれない」。

高みに視線を置くからこそ、ここまでの歩みがあった。「自分が上に行くためにはどうすればいいかを逆算して考えたら、今取らなければいけない行動というのは、その時その時で決まってくるじゃないですか」。思えば、ルーキー時代に見せた攻撃的なスタイルも、あの時だからこそ必要なものだったのかもしれない。

ルーキーイヤーに福島戦で見せたクロスについて聞いてみた。「その時は、その時なりに考えていたんでしょうね。でも、上のクラブに行くにつれてチームのためにやらなきゃいけないことがあって、それがいかに必要かというのをより実感するようになりました」。着実に、成熟してきたということだ。

JFLやJ3から“飛び級”でJ1クラブに入る選手もいる。だが、馬渡は確実に階段を踏みしめてきた。鳥取でJ3を2年間戦い、その後の2シーズンでJ2の2クラブで結果を残してきた。だからこそ、その歩みには一層の重みがある。

新天地での初の公式戦であるゼロックス・スーパーカップ、続くJ1リーグ開幕戦では、ともに交代出場となった。同じく新加入の右サイドバックであるマギーニョに、ここまでは先発を譲っている。

だが、FC東京とのJ1開幕戦で交代出場すると、確かに存在感を見せた。早めに縦パスを送り込み、自ら持ち込んで切り返しからシュートも放った。得意のクロスも披露している。「その時」は、着実に近づいているはずだ。

ここまでの道のりは、J1王者への到着をもってゴールとなるわけではない。

「ひたむきに上を目指すことを考えてやっていたら、チャンピオンチームに来ていました。日本でチャンピオンより上はないわけですが、自分自身はまだ、どのカテゴリーでもタイトルを取っていません。日本代表にも行きたい。選ばれたら、またその先が見えてくると思いので…」

結果を残してきた男の言葉は、響きが違う。積み上げてきたキャリアは、決して嘘をつかない。

フリーランス・ライター/編集者/翻訳家

1975年生まれ。新聞社で少年サッカーから高校ラグビー、決勝含む日韓W杯、中村俊輔の国外挑戦までと、サッカーをメインにみっちりスポーツを取材。サッカー専門誌編集部を経て09年に独立。同時にGoal.com日本版編集長を約3年務め、同サイトの日本での人気確立・発展に尽力。現在はライター・編集者・翻訳家としてサッカーとスポーツ、その周辺を追い続ける。

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