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1999年の川崎Fと2024年の福島U 四半世紀を超えてつなぐもの

杉山孝フリーランス・ライター/編集者/翻訳家
チーム始動日から精力的に指導する寺田監督(筆者撮影)

2月18日、「ダービー」が開催される。いわきFCと福島ユナイテッドFCによる「福島ダービー」だ。J2クラブに挑む格好になるJ3の福島Uを、J1からやって来た新人監督が率いる。

冷え込む街

 1月11日の福島市は冷え込んでいた。前夜、福島駅前の温度計は20時時点で2.4度を示していたが、それ以上の寒々しさが街を覆っていた。

 駅前の老舗ホテルは5年前に閉館され、ビルも取り壊された。再開発事業に伴ってのことだったというが、資材の高騰などで計画されていた複合施設の建設が難航しているという話も聞こえていた。敷地を覆う塀には芸能人の手によるイラストが描かれていたが、かえって物寂しさを増幅させていた。

 そんな日に、就任会見で「福島の皆さんに活力を」と話したのは、3部リーグのサッカークラブにやって来た新人監督だった。福島ユナイテッドFCで初めてプロチームの指揮を執る寺田周平監督だ。

「選手たちにもミーティングで、我々が何のためにここでサッカーをするのか、という話をしました。福島の皆さんに活力を与えようという話をしました。サッカーにはそういう力があると思っていますし、そういう点で、このチームが存続する意味があると思っています」

 川崎フロンターレ一筋でプレーし、Jリーグ通算191試合に出場。日本代表にも選出された。昨年までの3シーズンは川崎Fのトップチームでコーチを務め、J1優勝も経験した。

 今やJリーグ屈指の強豪へと成長したビッグクラブから、昨季J3で20チーム中15位に沈んだチームへ。同じプロながら2チームの間には大きなギャップがあるが、寺田監督は既視感を覚えるかもしれない。現在の福島の様子は、寺田監督がプロとして歩み始めた1999年の川崎と、どこか重なるのだ。

 1999年、川崎Fの戦場はJ2だった。ホームの等々力陸上競技場はがらがらで、観客数3000人台の試合も珍しくなかった。最寄りの武蔵小杉駅周辺も、現在のような賑わいには程遠かった。

華麗なサッカーのベース

 寺田監督と川崎Fで監督・選手として共闘した福島Uの関塚隆テクニカルダイレクター(TD)は、新監督招へいにあたり3つの点を考慮したと話した。最初に挙げたのが、「地域に根差したクラブづくりを経験された指導者という点」だった。25年かけてクラブと街の発展を体験してきた寺田監督の「成功体験」は、魅力的に映ったことだろう。

 かつての師である関塚TDと並んだ就任会見の席で、寺田監督は影響を受けた指導者について、一人の名前を挙げるのではなく、師事した歴代監督の「良いところ取り」をしたいと語った。優等生的な模範解答だが、本音でもあるだろう。

 現在も川崎Fを率い、クラブをJ1初優勝に導いた鬼木達監督の手腕は、コーチとして間近に目にしてきた。元チームメイトでもある優勝監督からは、「勝利からの逆算」を学んだという。

 鬼木監督は華麗なパスサッカーで川崎FをJ1初優勝へ導いたが、その礎を築いたのは風間八宏監督だった。あまりに独特な発想はアレルギーを引き起こす危険性もあったが、プラスに働く劇的な化学反応を起こす様を寺田監督はコーチとして目撃した。

 関塚監督の下では、自身2度目のJ1昇格を経験した。総得点104ゴールという今も破られない破壊力でのミッション達成だったが、その土台をつくったのは前任の石崎信弘監督だった。開幕前のキャンプでは筋トレなど3部練習を課して、自ら獲得を決めた関東大学2部リーグの細身のMF中村憲剛らを徹底的に鍛え上げた。「CBの3カ条を言えるか?」とサッカーの知恵を叩き込まれた寺田監督ら守備陣は、のちに「川崎山脈」と称えられることになる。

人を熱くさせるもの

 街をも変えた、まばゆいサッカー。福島でその再現を期待されるのは当然だろう。福島Uもこれまで「繋がりタオす」などのスローガンを掲げ、毎年アレンジしながらパスサッカーを目指してきた。寺田監督も技術を大切にする信条を説きつつ、自身が志向するサッカーと福島Uのイメージの一致を監督就任決断の一因に挙げていた。

 だが寺田監督は、「原点」を忘れない。

「どうしても技術とかそういうところに目が行きがちですけど、それを支えるのはひたむきにサッカーに取り組む姿や、ハードワークする姿。ベースはそこなので、トレーニングで常にこだわってやっていきたいなと思っています」

 さまざまな個性的な監督の手を経て花開いた川崎Fだが、初のJ1昇格をもたらしたのは優勝時と正反対のスタイルだった。1999年シーズン途中にバトンを受けた松本育夫監督が植え付けたのは、徹底したカウンタースタイルだった。

 25年を経て手法は変化したが、当時から続くものはある。全員のハードワークと、ゴールと勝利への飢餓感だ。寺田監督が実感を込めて語る。

「川崎フロンターレは技術があって、楽しいサッカーだと皆さんがおっしゃる。実際にそういう面もあるんですが、等々力で一番拍手が沸く時って、(攻撃から守備への)早い切り替えでボールを奪い返したり、最後まで諦めずに追ってボールを奪った時。そういう時って自然に拍手が湧くんですね。

 僕が選手時代に試合に出られなくてスタンドで仲間が戦っている姿を見て、真夏の暑い時期に最後まで戦って試合が終わった瞬間にぶっ倒れる姿、全力を出し切った姿を見て、本当に感動した。そういうところが人の心を動かすのかなと思っているので」

 プロ入りから一貫して過ごした川崎Fを離れるにあたり、「長くいたなと感慨深くなるところも正直ありました」と話す。それでも、「話をいただいた直後からワクワクが止まらないというか、早くチームの指揮を執ってみたいという気持ちになりました」と迷いはなかったという。

 空気の冷たいチーム始動日に、おそらく一番ホットだったのは寺田監督だろう。

 四半世紀の時を超えて、物語はつながるか。

寺田監督と関塚TD(筆者撮影)
寺田監督と関塚TD(筆者撮影)

フリーランス・ライター/編集者/翻訳家

1975年生まれ。新聞社で少年サッカーから高校ラグビー、決勝含む日韓W杯、中村俊輔の国外挑戦までと、サッカーをメインにみっちりスポーツを取材。サッカー専門誌編集部を経て09年に独立。同時にGoal.com日本版編集長を約3年務め、同サイトの日本での人気確立・発展に尽力。現在はライター・編集者・翻訳家としてサッカーとスポーツ、その周辺を追い続ける。

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